仕事をして報酬を得られるというのは、その仕事が雇い主の役に立っているからである。ある仕事を職業として選び、それをもって生計を立てているなら、たとえその内容が自分にとって楽しみにならなくても、仕事として割り切らねばならない。

 一方、趣味は? こちらは自分が楽しむためのものである。自分自身のためにするものだから、報酬はない。芸術家とかスポーツ選手だとか科学者は、はたから見れば、好きなこと、すなわち趣味の延長を仕事にしてお金を稼いでいるように見えるが果たしてどうだろうか。

研究者として実感した「研究ハイ」

 夏目漱石は、仕事は人のため、趣味は自分のためとしながらも、科学者と芸術家だけは「その職業と嗜好を完全一致させうる」と例外として取り上げている。科学者も芸術家も、研究や制作に没頭している時の心的状態は、共通なものがある、というのである。

 確かに元研究者として振り返ってみると、研究をしている間はそのテーマに取りつかれたようになり、自分のためとか人のためを超えた興奮状態となっていたような気がする。寝食を忘れて実験を繰り返しては、その結果に一喜一憂する。それが毎日のことであっても、それで疲れるということはなく、むしろ快感にさえなってくる。私はこの状態を「研究ハイ」と呼んでいる。

 こんな時「あなたは何のために研究をしているのですか?」と問われても、答えに窮してしまう。正直に答えるならば「研究ハイ」の状態を続けたいからとなってしまうのだ。周りの科学者や芸術家の風采や生き様を見ていても、さもありなんと思える。世間に認めてもらいたいという願望はあるにしても、それでどれだけの報酬を得て、どのように家族を養っていこうというような計画性はあまりないように見える。

 職業と嗜好が一致したとしても、それで生計を立てようとすれば、当然のことながら容易ではない。研究者であれば、所属している組織から研究成果を求められる。私は「研究ハイ」を続けていたいから、成果はどうでもよいのですという訳にはいかない。漱石にしても、職業作家となってからは、執筆の過程で大いに苦しんでいる。彼の死因となった胃潰瘍もこの苦悩と無縁ではなかっただろう。

 産業技術総合研究所の研究者に「どうしてこの道を選んだのか?」と尋ねたことがある。対象は40代の研究者が主だった。先ず、自然の生き物や岩石だったり、あるいは機械いじりだったり、何かのきっかけで理科が好きになる。やがて理科が得意な子供になっていく。この時点で自分は「理系」だと確信し、理系の学部に進学、大学院へと進む。この間に得た知識が自分の「専門」だと信じ、専門を更に究めたいと目標を定め、努力を重ねる。ノーベル賞も夢ではないと思えてくる。そうして産総研に入ってくる。