一方、中国で食事をしていると、中国の人々は食事を「残さず食べ切る」ことにほとんど意識が向いていない。先の例のように、ご飯粒を一粒残さず食べることに意義を見出している人は見たことがない。食べたいだけ食べて、お腹が膨れればそれで終わりである。それどころか、以前、私が高速鉄道の車中で買った弁当の、プラスチック製の容器の隅に詰まったご飯粒を箸でほじくり出して食べようとしたら、「みっともないからやめろ」と妻に怒られたことがある(妻は中国人である)。

 付言すれば、最近、食べきれなかった料理を持ち帰ることが中国でも増えてきたが、その背景には消費意識の成熟にともなう「無駄を減らそう」との意識がある。これは注目すべき変化ではあるが、残した料理の量が少なければ普通は持ち帰らず、そのままである。ここでの論旨とはやや文脈が異なる。

食べ残しのご飯粒は「資源の浪費」か

 こういった話を日本人は「マナーの問題」として認識するのが普通だ。「こんなだらしない食べ方をする人間はマナーが悪い」というわけだ。

 ここにあるのは、「一粒残さず」きれいに食べることが人として正しい行いなのだ――という、スジであり「べき論」である。私は日本で普通に育ったので、この感覚はよくわかる。

 しかし現実の問題として、「量」の視点から考えてみると、ご飯粒が弁当箱にいくらか貼りついていたところで、それが重大な結果を引き起こす可能性は事実上、ゼロである。このご飯粒を食べなくても空腹で困ることはないだろうし、資源の浪費だと言えば厳密にはそうではあるが、1人あたり何粒かのご飯が捨てられたとして、それが致命的な問題を招来することはないだろう。中国の人々が茶碗や弁当箱にへばりついたご飯粒に意識を向けないのは、それが「量」の問題として「現実に」大きな影響を与えないとの判断を無意識のうちにしているからである。

 冒頭に挙げた「一」を重視するいくつかの格言が言っているのは、詰まるところ「たとえ小さなことであっても、おろそかにすべきではない」という「スジ論」「原則論」である。一種の「心構え」と言ってもいいかもしれない。日本社会には、実態への影響はともかく、こういう「べき論」に忠実に、真面目に努力を継続する気風が色濃くある。

 一方、中国の社会はこうした規範意識は薄く、その「1」にどれだけの実質的な意味があるのか、を問う。そして現実的な意義が薄いと判断すれば、考慮から外れる。そのような些事にとらわれれば、かえって大局を見失いかねない。そういう判断をする傾向がある。