「スジか、量か」

 という観点からものごとを考えてみた時、日本では誰もがおなじみの格言の中に、いかにも「スジだなあ」と思われて興味深いものがたくさんある。思いつくものだけでも、こんなものが挙げられる。

「チリも積もれば山となる」
(ごく些細なものでも積もり積もれば山のようになる。小事をおろそかにするな)

「千里の道も一歩から」
(遠い道のりも踏み出した第一歩から始まる。着実に努力を重ねていけば成功する)

「一事が万事」
(一つの小さなことに見られる傾向が、他のすべてのことに現れる)

「点滴石を穿(うが)つ 」
(小さな水滴でも長い間続ければ硬い石をも溶かす。根気良く続けていれば成果が得られる)

「一円を笑う者は一円に泣く」
(小さな金を馬鹿にする者は、いつか泣く思いをする。小額でもお金を粗末に扱うな)

 ここに共通しているのは「一つのチリ」「一歩」「一事」「点(一)滴」「一円」というように、すべて「一」を基準に考えていることである。日本人はまずそこに「一つのチリ」があることに注目し、その存在を重視する。そして、その「一つのチリ」が積もれば山になると考える。まず「細部」が基準になって、その積み上げで「全体」が成立すると考える。

 そこには、たった一つのもの、もしくは非常に小さなものでも、それを粗略にすべきでないという精神がある。むしろ小さいこと、軽視されがちなことであるからこそ、そこに込められた意味を深く考え、尊重する。「本質は細部に表れる」と考えるのである。そういう考え方が「スジ」として日本にはあって、その故にこれらのことわざに多くの日本人が共感するのだろう。

弁当箱のご飯粒を食べ切る心理

 一方、「量」で考えることが基準になっている中国人は「一つのチリ」の存在を重視する発想が薄い。仮に多少のチリが存在しても、その量が少なければ現実的影響はない――と考える。つまり問うべきはチリが「あるか、ないか」ではなく、「どれだけあるか」だ――という思考の運び方をする。

 話をわかりやすくするために卑近な例を挙げれば、ご飯を食べ終わった後に、茶碗や弁当箱にご飯粒がいくつか残っているとする。これに対して多くの日本人、特に私のような年代の人間は、どうも落ち着かない感じがある。

 ご飯粒は残さず食べるべきもので、仮に一粒でも残っているのは「行儀が悪い」との感想を持つことが多い。「お腹が一杯で食べられないから一部を残します」というなら何とも思わないが、そうでなく、すっかりご飯を食べ終わっているのに、茶碗にベタベタとご飯粒がくっついている状態で「ごちそうさま」というのは、どこかに違和感がある。