中国古典こそ、何のイメージ画像も添えられていない文字のみの情報ですが、次々と更新されたり消されたりするネット上の情報と明らかに違うのは、古くは4000年も前から受け継がれてきた普遍的な情報が詰まっているという点です。「表面的にいくら変わろうと、人間の本質はそう簡単に変わるものではない。だから古典に書かれた情報は、現代においても根本的に信用できる」と華僑たちは言い、それを使いこなすために、自分の現実に当てはめて自分なりに解釈しています。

 日本でおなじみの故事成語の大半は中国古典を典拠とすると言っても過言ではないほどに、日本の歴史・文化にも中国古典は多大な影響を与えています。ですが、現代日本において、リアルに役立つ情報源として活用している人は多くはないでしょう。

 どんな素晴らしい情報も、実践に活かして初めて意味がある。ということで、前置きが長くなりましたが、今回は「人の話を聞くスキル」、さらには「聞いたことに反応するスキル」について、華僑が使う中国古典をからめて紹介していきたいと思います。

知っている話でも知らないフリをするのが得策

 老子の言葉に「知不知、尚矣(知りて知らずとするは、尚なり)」があります。解釈としては「知っているコトやモノに遭遇しても知らないフリをするのが得策である」でいいでしょう。前述したように、人の性質として、自分の話をしたい、聞いて欲しいという欲求があるということを忘れてはいけません。つまり、相手の話す内容を自分が知っていたとしても、とうとうと講釈や解説をしてはいけないということです。時と場合によりますが、相手の話す内容が見えても一般的には「それはどういうことですか?」「詳しく知らないので教えてもらえますか?」と反応することによってコミュニケーションが円滑に進むのは想像に難くないと思います。

 一方、それとは逆に「相手の本心がわからない」という愚痴とも嘆きともつかない言葉をよく耳にします。日本の外交を見てもわかるように、知っていること、わかっていることをすべて出してしまうのが日本では当たり前、と考えている人が多いので、相手の心を読み取れないのは不安に思います。でもこの部分は、グローバルスタンダードから見たときによくない点なのかもしれません。特に中華系の人たちは無表情を得意としていますので、「何を考えているかわからない」という言葉になって現れるのでしょう。ですが、この「すべてを話す」ということを戒めるのは、アメリカをはじめ先進諸国では当たり前のこととして、コミュニケーション講座などで学習しています。

 日本語的解釈でいえば、「タヌキのすすめ」と言ったらわかりやすいかもしれませんね。タヌキと聞けば、「あのタヌキ親父が」と言われるようにネガティブに捉えられがちですが、世界広しといえども、何でもかんでも正直に話すことを美徳とするのは日本くらいかもしれません。この「何でもかんでも」というところがポイントで、嘘をついたり、隠しごとをしたりすることを推奨しているわけではありません。タヌキを演じる目的は、あくまで相手に気持ち良く語ってもらう、気持ち良く聞いてあげることなのです。

 学卒後、数年働いていれば、いえ学生でもしっかりとゆっくりとヒアリングすれば、人様に話して価値があるコンテンツを1つや2つは誰しもがもっています。それを引き出してあげるには、何が必要になるのか。それは愛です。

 「知不知、尚矣」の実践は相手への尊敬の念であり、愛の提供でもあるのですね。相手にしっかりと気持ち良くなってもらい、自分はしっかりと情報収集をする、このあたりは「ずるゆる」の面目躍如でしょう。

 タヌキを演じるなんて「ずるい」と感じる方もいらっしゃるかもしれません。ですが、中国人社会では、「賢い=ずるい」「ずるい=賢い」と表現されることが多くあります。言葉が不自由な状況でもビジネスを成功させていく華僑流処世術もここにあるのです。ずるさを知りつつ、それを使わない。あるいは少しだけ周りの幸せのために使ってみる。なので、「ずるゆる」なのですね。