職場の上司や同僚、後輩たちと憂さ晴らしや楽しく会食するときにお金の話をするなんて、もってのほかだ、という人が多いのではないでしょうか? 華僑たちの会話の中心はお金の話です。多少、お金の話からずれることはあっても、ベースにはお金に関することを話します。常にお金の話をしているので、使い方が上達するのは当たり前なのです。
一般的な日本人と華僑の会食中の会話が違うのをお分かりいただけたと思います。楽しい会食が終わり、さあ会計という時の行動も大きく違います。
4人で1万5000円だから、1人3750円ずつね。というのが一般的な日本人です。そう、割り勘ですね。上司の人や先輩が少し多めに支払い、残りを割り勘というのも多く目にする光景です。
これを見て、華僑たちは笑っています。お金の話はよくないと言いながら、会食が終わってさあ気持ちよく帰ろう、という時にお金の計算を始める日本人の変わり身というか感覚は、お金の使い方を知らない子供を見ているようだ、と。
では、日本人の割り勘を見て笑っている華僑たちの会計の仕方はどうなのでしょうか? 会食中にお金の話をする、というのは先ほども触れました。その華僑たちは、会計の時は日本人とは全く逆の行動をとります。誰とは言わず、「私が払う」「僕が払う」と自分が「払う」合戦が始まります。この時に、皆が笑顔で「払う」「払う」で肩をたたいたり、こずいたりとコミュニケーションを取りながら、いつの間にか誰かが払ってしまう、という形で収束します。誰かが払った後は、「じゃあ、次の店は私が払う」「次回は俺が払う」と次につながる展開に必ずなります。
自分の財布と他人の財布が連動

なぜ、華僑たちはこのようなお金の使い方をするのでしょうか? そこには財布の概念の違いがあるのです。財布の概念? そんなものあるの? という人が大半かと思います。
自分の財布は自分の財布。他人の財布は他人の財布。それが当たり前。ですが、華僑たちの感覚は違います。自分の財布と仲間の財布は連動して動いているもの、というと分かりやすいでしょうか。
お金は「使うもの」です。今回は私の財布の中に入っているお金を使います、次回はAさんの財布の中に入っているお金を使います、その次はBさんの財布の中に入っているお金を使います、という感覚なのです。
彼らのそんな考え方を表す中国のことわざがあります。「銭及身外之物、生不帯来死不帯去」というものです。意味は、お金は体の一部ではない、生まれた時もお金を持っていないし、死ぬ時もお金を持っていくことはできない、と訳せば分かりやすいですね。
お金はこの世で、生のあるうちに使うもの、という教訓はとても示唆に富んでいます。お金の話を日常的にしている華僑たちのほうが、お金の手離れが非常にキレイなのです、キレイという表現が適切でなければ、非常に慣れているのです。
お金に汚い、と思われたら嫌われるのは万国共通です。割り勘はそう勘違いさせる危険性をはらんでいます。日本人同士ではお金でもめないための合理的な方法であっても、外国人から見れば「けっきょく自分が損したくないからでしょ」とケチ扱いされかねないからですね。