ITの普及や人口比率構成の変化などで、世の中は表面的には大きく変わったように見えますが、人間社会の根本は変わっていません。変わったことに気を取られて、いつの時代も変わらないことを見落としてはいけない。そのように私は華僑から教わりました。では、いつの時代も変わらないこととは何でしょうか? それは、人間が作っている人間社会では、何においても人間関係を制した者が勝つ、ということです。
「天下を争う者は必ず先ず人を争う」。中国古典の『管子』にある言葉で「人を争う」とは、人材の獲得と人心の掌握という意味であり、成功したいならこのことを重視せよという意味です。どんなに優れた才能を持った人でも、人並み外れた努力ができる人でも、ワンマンプレーには限界がある、というのは誰しもご納得いただけることでしょう。
それは仕事で問題・課題に直面した時にも言えることです。ビジネス社会では学生の定期考査のような「答えが1つしかない」という状況はあまりありません。答えが用意されていない中で答えを作っていくのがビジネスであるという前提にたったとき、自分の頭の中だけで考えるより、周囲の人たちの中に答えがあると仮定して考えるのはとても合理的です。自分の能力や努力の範囲でなんとかしよう、ではなく、周囲の人というリソースに目を向けることで、ブレークスルーが可能になるのです。
「時短」は華僑にとっても重要な課題
最近のビジネス社会では「生産性の向上」と連動して「働き方の多様性」、さらには「時短」ということが注目を集めています。そんな中、ビジネスパーソンにとって残業時間の削減はもちろんのこと、休暇取得も喫緊の課題でしょう。
時短の流れは止まらないでしょう。時短という時代の流れに乗るためには、仕事の要領の良さが求められます。要領の良さが求められるのですから、仕事が遅いと思われたくない。仕事が早いと言われる人になりたい。そういった願望が読者の中にもあるのではないでしょうか。
では、仕事が早い人にはどんな特徴があるのでしょうか? 私の周囲を見てみると、華僑は概して仕事が早い、という印象があります。彼らが手を抜くのがうまいということではなく、また漢民族が特別優れているということでもありません。メンツ社会の本国を出てきた華僑たちにとって、立身出世しなければ帰郷できないという事情が大きく影響しています。出世しなければ故郷に帰ることができない、早く出世してできるだけ早く帰省したい、その思いが彼らの仕事を早くさせる骨幹にあるのです。
仕事が早い華僑には共通の特長があります。その特長とは「話が早い」ということです。話が早いというのは、喋るスピードが速いということではありません。一つひとつの会話の完結が早いのです。さらに華僑たちをよく観察してみると、その会話の完結の早さの理由が分かります。それは「周囲との共有事項が多い」、ということです。
共有事項を増やせば仕事が早くなる
例を挙げて説明しましょう。ある会社で、注文した品の納品が遅れたというトラブルがあり、原因は注文した社員が先方への確認を怠ったことでした。その社員は当然上司に報告しなければなりません。
報告の際、上司との共有事項が多ければ「○○さん宛にFAXを送りましたが確認を忘れました」で済みます。一方、共有事項が少なければ「△□社の○○さんという人が担当なのですが、事務の人で、あ、若い女の人なんですけど、前にも発注書を紛失されたことがあったので確認の電話をしなければと思っていたんですが、ですがFAXを送ったのが夜だったもので明日にしようと思っていて忘れてしまいまして。実は翌日は朝から急なアポが入りましてうんたらかんたら…」。話が長くなる上、説明すればするほど言い訳めいて、上司の印象を悪くしてしまいます。
どうでもよさそうな些細なことも含めて、できるだけ多くの人と日々の出来事や情報を共有しておくことで、1聞けば10分かる、さらに1言うだけで相手に10分からせる「話の早い人」になることができます。そして「話が早い人」は周囲の信頼、評価、協力を得やすいので仕事がスムーズに運び、「仕事が早い人」になれるのです。
「なんでも話しやすい人」になるコツ
共有事項であれば、会社でシステム的に情報共有をしているよ、という人も多いと思いますが、ツールを使っての文字情報には限界があり、誤解も招きやすいという欠点があります。ムダな回り道を避けるためにも、なんでもかんでもツールではなく、直接または電話で話して情報の質を高めることが大事です。
時短の側面から見ても、メールで文章を書くよりも話した方が早い場面は多いです。ですが「働き方の多様性」という流れもある中、周囲の多様性に対応できない人、コミュニケーションを押し付ける面倒な人などの烙印を押されては、本末転倒になってしまいます。話をする際にはまず目的を明確にし、ポイントを踏まえ、コツをつかまなければなりません。
目的は、話が早い=仕事が早い人になるための情報共有ですから、自分のことも話す必要があります。自分のことを知っておいてもらえば話がスムーズになりますし、また情報を隠されないためにはまず自分が隠してはいけません。自分の情報の開示については弱みを露呈しないよう慎重にコントロールしつつ、そして周囲の人々の情報に関しては(それと悟られずに)幅広く把握するのがいいでしょう。
ポイントとしては、「なんでも話しやすい人」の雰囲気を作ることです。ツールを使いなれた若い世代はツールで完結したがり、直接の対面や電話で話すことを嫌ったりする傾向があるため、年配者は躊躇してしまうことが多々あると思いますが、「説教を聞くのではなく話を聞いてくれるなら良い」というツール世代の若者は多くいます。人間は感情表現をしないとストレスがかかるものです。それは各種ツールが発達しても古今東西変わらない不変のものです。
なんでも話しやすくするコツは、「話すは短く、聞くは長く」「自分のしたい話をするのではなく相手の話を聞く」の二つです。この二つを常に意識することによって、周りの人から見ての話しやすさは随分と変わります。まずはここからですが、既にできている人に向けて、さらに踏み込んで華僑流の「思わず話してしまう」術をご紹介します。
「事情」は心を開かせる便利なキーワード
「思わず話してしまう」術とは、「事情」という言葉を使う方法です。自分が不利になることは隠そうとするのが人間です。ある意味本能に近いものがあります。本能に近い「隠す」という思考が人にはあるという前提に立てば、少々問題があっても報告せず、明らかにミスしたとなれば言い訳を並べ立てる人の気持ちが、手に取るように分かるようになります。
人が言い訳をし出した時に注意すべきは、「それは言い訳だ」と拒否、否定しないことです。理由は簡単で言い訳を拒否すると真実、本音を言わなくなるからです。そこで、「事情があるんでしょ」といえば心理的ハードルが一気に下がります。相手に「これは言い訳じゃなくて事情の説明だ」と思わせてあげれば、隠したり取り繕ったりする必要を感じなくなり、正直に話しても大丈夫だという気持ちにさせられるのです。
華僑はもっとずる賢く、それは由々しき問題だというものだけではなく、「少々の問題」と思っている段階で「事情」を使って「愚痴」を言わせます。事情という表現を使うことによって、「うまくいかないのは自分のせいではない」と相手を油断させ、他の誰かや組織の体制などのせいだという「愚痴」を言わせることで、隠れた情報を無理なく引っ張り出すのです。
これについては『老子』の「知る者は言わず、言う者は知らず」も参考になるでしょう。意味としては「よく知らない人に限ってたくさん話す。よく知っている人は普段あまり話さない」という理解でいいでしょう。一見、「事情」と正反対に感じるかもしれませんが、そうではありません。ミスや問題をよく知っている本人はそのことについて多くを語りません。ミスや問題のことをよく知っているので黙っている、ということです。それを「事情」という言葉を使って「愚痴」として炙り出すのですね。
逆に考えれば、自分の「事情」は上司などから問われる前に話しておくべきで、なおかつ「事情」は話しても「愚痴」は絶対に言わないのが賢明だということがお分かりいただけると思います。
「面従後言」の対策は窓口を置くこと
自分が上の立場の場合、基本的に部下は「面従後言」であることを前提として対策するのがいいでしょう。面従後言とは『書経』を出典とする言葉で、面と向かっては従うが陰で不平不満などを言う、との意味です。怖がらせているつもりはなくても、部下が恐縮して直接言ってこない。それは仕方がないことだとして、都合の悪い話が入ってこないなど情報が偏ると、自分の仕事のスピードどころか組織のスピードを落としてしまうことになります。
そこで対策として有効なのは「窓口」を置くことです。部長が新入社員の意見を聞きたい場合は、新入社員担当の係長にその役をしてもらう、などです。窓口になってもらうコツは、窓口になることによって優越感を持てるような仕組みにすることです。「社の新陳代謝に貢献してくれてありがとう」など簡単なお礼でも効果は期待できますので、試してみてはいかがでしょうか?
日本企業の中間管理職は諦めモード?
それでは“ずるゆるマスター”の事例をみてみましょう。
戦略系コンサルティング会社に勤めるPさんは現在6社のコンサルティングを担当しています。6社担当というのは、繁忙期に比べるとまだマシな方ですが、Pさんは熟睡できない日が続き倦怠感を感じています。
「よう、P君。どうしたの? 浮かない顔して。行き詰まっているクライアントさんでもあるの?」と“ずるゆるマスター”のW部長が声をかけました。
「部長。そうなんです。300人規模の製造メーカーさんからのご依頼で、業績アップと時短の両立が課題なんですが…。どうも現場の意思疎通が上手くいっていないという印象でして、システム的なアプローチだけでは効果が出にくい状況なんです」
「社長や役員がワンマンで意見が言いにくいといった問題はないのかな?」
「社長はワンマンという噂でしたが、それは自覚されていて、今回は口出しをせず役員に任せるとおっしゃっています。ですので経営陣は前向きで協力的なのですが、中間管理職の人たちの気持ちの切り替えに苦戦しております」
「なるほど、それはちょっと根深いかもしれないな。この10年、日本企業は中間管理職の人たちをないがしろにすぎた。中間管理職こそ日本企業を支えてきたんだけどね」
「そうなんです。日本企業の強さは中間管理職にあったのですが、当の中間管理職の人たちが『どうせ、中間管理職ですから』という感じなのです。役員が一致してコンサルティングに協力的な会社さんは業務改善をやりやすかったのですが、今回の会社はどうも勝手が違います」
「わかったよ。課長さんクラスの人に集合していただくことはできるかい? 僕が彼らと話してみよう」
課長たちの「事情」とは?
「課長の皆様、本日はお忙しい中お集まりいただきましてありがとうございます。お忙しいと思いますので、早速本題に入りたいと思います。ビジネスは武器を使わない戦争と言われるくらい競争が激しいのは皆様、ご存じだと思います。現に人件費その他の安さを武器にアジア勢が皆様の会社を苦しめています。
中国古典に『天下を争う者は必ず先ず人を争う』という管子の言葉がございます。意味としては、『戦いに勝とうと思えば、二つのことを意識すればよい、その二つとは、人材の獲得と人心の掌握である』という感じです。人材の獲得すなわち採用は役員や人事部の方の担当のお仕事になりますが、人心の掌握は、課長の皆さんの担当になります」
そこで、出席者の一人が手を挙げました。
「ちょっといいですか? 人心の掌握と言いますが、最近は会社が情報共有システムを導入していて、直接話すことが減り、部下たちが何を考えているのかが分かりにくくなってきました。昔は一緒に残業した後に一杯飲みに行ってそこで色々と話をすることもできましたが、今はそれもかないません。それに、最近は仕事以外の話を社内ですることも難しい雰囲気になっていますしね」
「ご意見ありがとうございます。会社のシステムは業務事項の共有にはもってこいのツールというのはお分かり頂けると思います。それはそれで大いにご活用ください。これは他社さんでも同じなのですが、パソコンやスマートフォンなどのIT機器の普及で逆にコミュニケーションがとりにくくなった、という声は山ほどあります。だからこそ、コミュニケーション能力の違いが業績の違いを生むのです。IT機器の弱点はなんといっても感情が伝わりにくい、誤解を生みやすい、間違って伝わることがある、ですが、それを補完するためには、従来通りの対面のコミュニケーションがとても大切になってきます」
「言っていることは分かりますよ。でも部下たちは自分の小さなミスは正直に話してくれないので、問題が大きくなって、役員・部長の耳に入れておかないといけなくなってからしか発覚しないのですよ。で、責任は私たち中間管理職のせいになってしまう」
出席者の半分くらいがウンウンと同意を示す頷きをしています。
「そこですね。『事情』はよくわかりました。今仰られたのは管理職の皆様の事情ですね。実は部下にも、部下なりの事情があるのです。彼らが話してくれないのにも事情があるのです。それはお分かり頂けますね。誰にでも事情がある。だからそこを突いてみてください。部下と話す時に必ず『君にも色々と事情があるでしょ、分かるよ』と言ってください。魔法のようですが、それを少し続けるだけで彼らから出てくる言葉が変わってきます」
「事情がある、か。なるほど、そう言われるとなんなく楽な気持ちになりますね」
「そうです、そのなんとなく楽になる、ということの繰り返しが大切なのです。なんとなく楽になるを繰り返せばどうなるでしょうか? もうお分かりですね、話すことが楽になるのです。話せば楽になると思ってもらえれば、こっちのものですね」
全員がなるほど、という感じで頷きます。
「楽になると分かれば、徐々にたくさん話してくれるようになります。中国古典の老子に『知る者は言わず、言う者は知らず』という言葉がありますが、意味としては知っている人はあまり話さない、知らない人に限ってたくさん話す、という意味です。自分のミスやトラブルを本人はよく知って分かっているので、話してくれません。ですが、さきほどお伝えした『事情』というキーワードを使えば、本人がよく分かっているミスやトラブルを話すようになってきます」
上役こそ下の人に頼むべし
別の人が手を挙げました。
「今言われたことは非常に納得がいきました。でも私は、部下から怖がられているのを自分で知っています」と苦笑いしながら発言しました。
「怖がられている理由は、ここでは直接関係ありませんので触れませんが、基本的に部下というのは『面従後言』だと割り切ってください。要は目の前ではかしこまって、裏で何を言っているかは分からないものだ、と。裏で何を言って入るか分からないと言っても、それが悪く言っているとは限らない、と必ず理解しておいてください。
私にも話しにくい上司がおりますが、嫌いな訳ではありません。その上司に直接話しにくいことは中間に位置する人に伝えてもらっています。皆様は課長さんですので、部下に係長など中間に位置する人がいると思いますが、彼らに聞き役になってもらうように頼んでみてください。これはジェネレーションギャップを埋める意味でも効果があります」
3週間後、満面の笑みでPさんは“ずるゆるマスター” W部長のデスクの横に立っています。「部長、先日はご同行ありがとうございました。例の会社さんですが、とてもいい雰囲気になってきました。課長の方たちの働き方といいますか、輝き方と言ってもいいですね、素晴らしくなりました。意思決定のスピードも格段にアップしました。過去の事例と照らし合わせると、半年後には業績が20%アップすると思います」
「そうか、よかったねP君。そろそろ君も中間管理職を卒業して部長になるか? 先日の役員会議で僕は役員になることになった。後任にP君を推薦しておくよ」
ハッキリとした物言いで見方によっては厳しい人に見えるのに、なぜか周囲から情報が集まり、仕事も早いあの人は、様々な事情を熟知している“ずるゆるマスター”かもしれません。
どれほど世の中が変わっても、いつの時代でも通用する華僑の「ずるい=賢い」処世術は、拙著『華僑の大富豪が教えてくれた「中国古典」勝者のずるい戦略』でもたくさん紹介していますので、ぜひそちらも参照していただき、あなたも“ずるゆるマスター”を目指してみてはいかがでしょうか。
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