もちろん、私は決してそのような“浅い感情”を奨励しているわけではありません。誤って、愛の発露であるはずの“深い感情”を封じてしまうと、むしろ「頭」由来の“浅い感情”があべこべに強化されて、そのヒステリックな感情に振り回されてしまうという、精神のカラクリについて述べているのです。

常識を超えるもの

 ここでもう一度、ルドンの話に戻りましょう。彼は、次のような言葉を遺しています。

──常識とは正しい判断をする態度であり、教養はなくても、地面をほとんど離れない観念の世界で働くものです。最も直接、最も身近な現実にしか用のない人々には、常識がすべてを解決しますが、──それを超えたところに眼を向ける者には、ほとんど役に立ちません。それを欠いているために、最上の精神の立派な力が、不毛になる場合があるのは悲しいことです。
 (〜中略〜) 
 すべて感覚は思考させます。読書は精神を養うすばらしい源です。我々を変え、完成します。思想を残した大きな精神との無言の静かな対話ができます。そうはいっても、読書だけでは、健全に強く働く精神が完成されないのは事実です。魂を培う要素を取り入れるには、眼が必要です。眼で見る能力、正しく真実を見る能力を発達させていない人は、不完全な知性しか持たないでしょう。見る、というのは、ものの関係を自然に見て取ることです。

(同前『ルドン 私自身に』より)

 日々に忙殺されて生活していると、ともすれば「最も身近な現実にしか用のない」状態に陥(おとしい)れられてしまいそうになりますが、そんな私たちの魂を救済してくれるのは「正しく真実を見る」眼である、とルドンは言っています。

 おびただしい情報に囲まれ、「頭」による情報処理に忙しい現代の生活では、感覚によって呼び覚まされるような思考の機会を持つことがなかなかできません。

 思考を呼び覚ます感覚とは、私たちの「心」から発せられるものです。しかし、合理主義的な価値観が支配的な現代においては、「心」は「闇」として蔑視され、視野の外に置かれてしまいがちです。

 しかしその結果、現代の社会は便利で効率的ではあっても、生の感覚の持ちにくい、白けた「光」の世界ばかりになってしまったように思われます。そんな状況に置かれた私たちにこそ、ルドンの描いた静かで澄んだ「闇」の世界が、きっと、常識を超えた豊かな世界を、今一度、思い起こさせてくれるのではないかと思うのです。

《キャリバンの眠り》1895-1900年 油彩/カンヴァス オルセー美術館蔵
Paris, musée d'Orsay legs de Mme Arï en exécution des volontés de son mari, fils de l'artiste, 1984
Photo ©RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF

(次回へ続く)