(前回から読む)

「食」はその人の在り方を反映する
人間が生きていく上で欠かすことのできない「食」は、かなりその人の在り方が反映されるものではないかと思います。
改めて言うまでもなく、「食」は私たちの生きる喜びの、かなり大きな割合を占めているはずのものですが、これが、喜びとはほど遠い「ガソリン補給」のようになってしまっている人もいるようです。そういう人は、「一々何を食べるか考えるのが面倒」と言い、毎回同じものを食べることに決めてしまっていたり、幾つかのメニューを機械的にローテーションさせていたりという、かなり無機質な食生活になっていることも珍しくありません。
それが、たとえ栄養バランスに問題がなかったとしても、“生き物らしい食生活”からはかなりかけ離れた不自然なものであることが、とても気になります。
不自然な食生活とは
このコラムの第1回(2018年3月1日配信「うつ病の原因にもなる、『心』のフタって何?」参照)で、人間という存在は、「心=身体」という自然原理の部分と、「頭」という非自然原理のコンピューター的部分のハイブリッドであるということを述べました。そこから考えてみると、上記のような無機質な食生活になっている人は、自然原理の「心=身体」が食生活にあまり関与していないという、かなり不自然な状態にあると言えるでしょう。なぜなら「心=身体」という場所は、“生き物”らしく、その時の「身体」の状態に応じて、必要な栄養素を食欲という形で「心」から発するようになっているものなので、いつも同じものを欲したり、機械的ローテーションで済むような食欲を出してくるはずがないからです。
例えば、寒い時には身体を温めるような汁物や辛いものを欲し、暑い時には身体の熱をとるような生野菜やさっぱりしたものを欲したりする。肉や脂っこいものをたくさん摂った次には、あっさりしたものが欲しくなる。夜遅くに食事をした翌朝は、あまり朝食を欲しいとは思わない。そんな風に私たちの「心=身体」は、一々「頭」で考えたりしなくても、自然にバランスをとってくれるようにできているのです。その意味では、栄養学的知識で「これは身体に良いから」と考えて不自然にそれを継続したりルーティン化したりすることも、問題があると言えるでしょう。このように「頭」で仕切るような食生活は、いくら栄養学的に正しいように見えても、「心=身体」という内なる自然を蹂躙してしまっているという点において、やはり問題があるのです。
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