(前回から読む)
なぜこれほどまでに「規則正しい生活」信仰が広まってしまったのか(写真:PIXTA)
うつ病などで休職中のクライアントが、会社の健康管理室などで「規則正しい生活をしなければ、治りませんよ」と言われたという話を、よく耳にします。
もちろん、主治医である精神科医や心療内科医たちも、このようなアドバイスを必ずと言っていいほど患者さんたちに行なっていることは、私も重々承知しています。かく言う私も、ある時まではそんなアドバイスをしていた一人だったのですから。
しかし、なんでも疑ってみないと気が済まない私は、ある頃からこれは本当のことなのだろうかと強く疑いを抱くようになりました。そして結果としては、この考え方には根本的な間違いがあると確信するようになったのです。
現在は私は、クライアントに「療養中は、眠くなったら寝る、起きられる時間に起きるような自由な生活」を推奨するようになり、自宅療養でよく見られる「昼夜逆転」もそのままで経過を見ていくようにしています。この方法を採るようになって、クライアントには特にマイナスの影響は認められませんし、それどころか、むしろ従来のやり方よりもはるかに良好な経過をたどることが多いという手応えを得ています。
それにしても、なぜこれほどまでに「規則正しい生活」信仰が広まってしまったのでしょうか。この問題について、今回は少々掘り下げて考えてみたいと思います。このテーマは、必ずしもメンタルな問題を抱えていない方たちにとっても、現代人の生活のバックグラウンドを一味違った角度から考えてみる、一つのきっかけになるのではないかとも思うのです。
時計の時間はいつからあったのか?
言うまでもなく、「規則正しい生活」とは、毎朝決まった時間に起きて、決まった時間に食事をし、決まった時間に就寝し、一定の睡眠時間を確保することを指しているわけですが、まずは、ここで基準となっている「時間」というものについて考えてみましょう。
現代に生きる私たちにとっては、腕時計も壁掛け時計も当たり前のようにあって、スマホにもPCにも時間表示があり、「時間」を正確に知ることは実に容易です。もちろん、目覚まし時計もあるし、スマホ等のアラームで起床時間を決めることもできます。
しかし、このように時計が整備されたような環境は、一体いつからあったのでしょう。
時計がここまで万人にとって身近な存在になったのは、悠久なる人類の歴史において、かなり最近のことに過ぎないのです。
古代から日時計などはあったものの、それは人々の生活に今日のように浸透したものではありませんでしたし、中世になっても、都市の中心にある教会などの時計台や鐘によって、大まかな時間を知る程度のことしかできなかったのです。
チェコの首都プラハの旧市庁舎にある15世紀製作の天文時計。機構部分の製作・設置は1410年で、おそらく1490年頃に暦表盤の追加などが施されたとみられている(写真:PIXTA)
その後、家庭の中に振子時計などが置かれるようにもなっていきましたが、やはり人々に時計が密接な意味を持ちはじめたのは腕時計の登場以降でしょう。
腕時計が初めて開発されたのが19世紀初めで、一般的に人々に普及したのは何と、第二次世界大戦以降なのです。
『遅刻の誕生』(橋本毅彦・栗山茂久 共著/2001年、三元社刊)という本によれば、時間に対する厳密さが人々に求められるようになったのは、鉄道のダイヤ運行の必要があったためだったようです。それにしても、この本の書名からもわかるように、現代人が恐れる「遅刻」という概念すら、昔はなかったわけですね。
いずれにせよ、時計の時間によって人々の生活が規定されるようになったのは、かなり最近のことであることは間違いありません。
また、わが国においては長らく、日の出から日の入までを6等分した不定時法という時間が用いられていたようで、何と、季節によって1時間の長さ自体が伸び縮みさえしていたのです(下図参照)。
「不定時法」における夏至と冬至の時間の違い
1日の長さを昼と夜に2分割し、昼と夜をさらに等分する時刻制度を「不定時法」と呼ぶ。江戸時代は今とは異なり不定時法が使われていた。昼と夜をそれぞれ6等分し、1つの単位を「一刻」と呼んだ。1日の中でも、昼と夜で「一刻」の長さは異なることになる。また、昼と夜の長さは季節により変化するため、一刻の長さは常に変化した。なお時の呼び方については、今でいう0時と正午を「九つ」と呼び、一刻ごとに減算(八つ、七つ…)して四つまで行ったら、次はまた九つから数え直す方法がとられた。
このように考えてくると、生活に密着したものとしての「時計の歴史」自体、かなり日が浅いのですから、「規則正しい」にこだわるような考え方の歴史も、ごく歴史の浅いものなのです。
「規則正しい睡眠」は本当に必要か?
「規則正しい生活」を推奨する考え方の人は、必ずや「規則正しい睡眠」が大切だと言い、できれば7〜8時間の睡眠が望ましいとか、PM10:00〜AM2:00が睡眠のゴールデンタイムだといった説を主張していることが多いものです。これらが根拠薄弱な俗説にすぎないことは、昨今、さまざまな実験で明らかにされてきていますが、それでも未だに、「まとまった睡眠をとることが望ましい」と考えている人は、決して少なくないかもしれません。
アマゾンの奥地に居住するピダハンという少数民族がいます。驚くべきことに、この民族は、まとまって寝るということをしません。一度に2時間程度の睡眠を何度も昼夜問わずとるのですが、それを皆で交代交代にとるような生活をしている。つまり、彼らにとっては断眠が普通なのです。
アマゾンのジャングルで暮らす彼らにとって、まとまった時間寝てしまうことは、とても危険なことなのです。なぜなら、ジャングルに棲息する毒蛇やら猛獣やらが、いつなんどき襲って来るかわからないのですから。彼らのおやすみのあいさつは、「寝るなよ、ヘビがいるから」という言い方なのです。
このピダハンの例はあまりに極端なものかもしれませんが、それでは、スペインやイタリアなど世界各地で広く行なわれているシエスタはどうでしょう。これは、帰宅してゆったりと昼食を楽しんだ後に数時間程度とるお昼寝の習慣なのですが、彼らはその分宵っ張りで、夜の睡眠時間は短めです。
日本でもその昔、お昼寝は少なからず当たり前の習慣であったのです。農家などでは特に、陽の高い真昼は直射日光が激しくて仕事にならないので、お昼寝をして英気を養っていたわけです。
このようにいろいろ考えてみると、睡眠についても、私たちはもっと柔軟に捉えて良いのではないかと思うのです。
「昼夜逆転」にも意味がある
特に精神科医が問題視することが多いのは、「昼夜逆転」です。そんな生活リズムを放置しておいたら治らないし、治っても会社や学校に行けなくなってしまうのではないか、と。しかし、これも根拠のない、誤った思い込みにすぎません。
状態が良くなってくると、特別に意図して努力などせずとも、自然に昼夜逆転は解消してきます。また、状態が改善して復職や復学が決まると、復帰当日からそれに合わせたリズムに身体は戻してくれるのです。
むしろ「昼夜逆転」が起こっている場合に考えなければならないのは、その現象がなぜ起こっているのかという「意味」なのです。
状態が良くなってくると、特別に意図して努力などせずとも、自然に昼夜逆転は解消してくるもの(写真:vencavolrab78/123RF)
これまで多くのケースを診てきて、一つ確実に言えることは、「昼夜逆転」が心理的な防衛反応の一つであるということです。考えてみれば当たり前のことなのですが、精神的に不調で自宅療養せざるを得ないクライアントにとって、世の中の人たちが仕事に従事したり、学校に行って学業に励んでいるような日中に、特にすることもなく気力もない状態で、漫然と家で過ごさなければならないのは、かなり精神的拷問に近いものなのです。活動的な世の中に人たちと動けない自分を比べてしまって、劣等感や罪責感に苦しめられてしまいやすいのです。ですから、そんなヒリヒリする日中の時間を、寝てやり過ごしたくなるのは実にもっともなことなのです。
逆に、世の中の人たちが休んでいる夜中の時間は、そのような精神的苦痛を感じにくい穏やかな時間なので、かえって起きていたくなるのです。
このような「昼夜逆転」の「意味」を読み取り、その心理に丁寧にアプローチすることをなおざりにして、ただ「昼夜逆転」はよろしくないと指導するのでは、治療自体が一体何を目指しているのか、理解に苦しみます。
しかも、さらに問題なのは、眠くない夜に「寝るべきである」として睡眠剤を投入し、眠くてだるいという日中には「夜に眠れなくなるから寝てはいけません」といった指示をすることによって、患者さんの「頭」による「心=身体」へのコントロールを強化(2018年3月1日配信「うつ病の原因にもなる、『心』のフタって何?」参照)してしまい、表面上の生活リズムは整えられても、内面的には状態が悪化してしまうことです。そもそも、「頭」の意志力による過剰な「心=身体」へのコントロールが引き起こした病態であったにもかかわらず、治療の名において再び「コントロールせよ」と指示することは、どう考えても「治療ならざる治療」なのではないでしょうか。
実際、このような意図で睡眠剤を用いても、あまりうまく効かないことがほとんどで、それでも力づくで寝かせようとすると、かなり多量の薬剤を必要としてしまうことになります。また、その薬剤のハングオーバー(持ち越し)によって、翌日の日中はより激しい眠気との戦いをしなければならず、その眠そうでぼんやりした状態を診て、「まだ治っていない」と診断されてしまう。これでは「出口なし」の悪循環です。
論理学的にも間違っている
また、そもそも「規則正しい生活をしなければ、治らない」という考え方は、論理学的な観点からも、かなり怪しいものであると思います。
私の長年の臨床経験からはっきりと言えることは、「治った人は、規則正しい生活になっていることが多い」ということだけです。これを、話をシンプルにするために、とりあえずここでは「治った人は、規則正しい生活になる」として考えてみましょう。
「治った人」をAとし、「規則正しい生活になる」をBとして、「ならば」を→で表したとすれば、この臨床的事実はA→Bという論理式で表すことができます。
基礎的な論理学では、A→Bが真である場合に成り立つのは唯一、“対偶”と呼ばれるnotB→notAだけです。つまり「規則正しい生活になっていないのならば、まだ治っていない」ということです。
B→Aは“逆”と呼ばれるもので、「逆は必ずしも真ならず」といわれているように、成り立つとは限らないものです。つまり、「規則正しい生活になったならば、治った」とは言えないのです。よって、意志力で頑張ったり薬物を用いて「規則正しい生活」をしたとしても、「治った」状態になるかどうかには、直接関係がないわけです。
また、notA→notBは“裏”と呼ばれるもので、これも“逆”と同様で「裏も必ずしも真ならず」であって、「治っていない人は、規則正しい生活をしなかった人だ」という論理も成り立ちません。
「治った人は、規則正しい生活になる」
→正しい
「規則正しい生活になっていないのならば、まだ治っていない」
→正しい…(対偶)
「規則正しい生活になったならば、治った」
→そうとは限らない…(逆)
「治っていない人は、規則正しい生活をしなかった人だ」
→そうとは限らない…(裏)
「本当にそうだろうか?」という問いを一度は向けてみる
また少々ややこしいのですが、元のA→Bは、「治った人」のことについて述べていただけであって、そもそもどうすれば「治る」という話ではありません。にもかかわらず、西洋医学ではあちらこちらで、このようなすり替えが平然と行われてしまっています。
身近な例を挙げてみると、「風邪が治った人は、熱が下がっている」とは言えても、「熱を下げれば、治る」わけではありません。しかし、この過ちに気付かず、解熱剤を処方することが治療だと思い込んでいる医師もいるのです。
同様に、「精神的に不調だと、不眠になることが多い」という現象の観察から、性急に「不眠を解消すれば、精神的不調も治る」という誤った結論を導き出してしまって、やたらに睡眠剤を処方してしまったりする精神科医も少なくありません。
この種のすり替えは、つまり「症状が消えれば、病気が治る」という倒錯した信念を生みだしてしまい、現代医療の大きな問題点でもある「対症療法の氾濫」を引き起こしている一因であると言えるでしょう。
それにしても、科学の一分野としての矜持を持つべき医学が、高校で習うレベルの初歩的論理学すら分かっていないような過ちを犯して、その問題に気付かないというのは、かなり恥ずかしいことではないかと思うのです。
現代に生きる私たちは、情報を集めたり知識を詰め込んだりすることは得意だけれども、既存の知識や理論について、一から問い直してみる作業を忘れがちになっているものです。今回は、「規則正しい生活」は良いことだという思い込みについて考えてみましたが、是非皆さんも、つい当たり前のように信じ込んでいるさまざまな事柄について、「本当にそうだろうか?」という問いを一度向けてみてはいかがでしょうか。
(次回へ続く)
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