オシコシで受けたさまざまの刺激を3回の記事にまとめたが、実は話したいことはまだまだある。きれいに記事としてまとめるにはちょっと内容が足りないけれど、どうにも心に引っかかるようなことだ。
そういう引っかかり方をしたことの中には、後になって重要だったと気づくこともある。無意識が「これは重要だぞ」と警告を鳴らしているのかもしれない。最終回として、担当編集者のY氏を相手に、そういうことも洗いざらい話しておくことにしよう。
松浦:じゃあ、空飛ぶ自動車の話から始めましょうか。
Y:はい?
見果てぬ夢、空飛ぶ自動車
松浦:こちらの写真を見て下さい。今回のEAA AirVenture Oshkoshには、私が確認した限りで2社が「空飛ぶ自動車」を出展していました。Terrafugiaというベンチャーの「TRANSITION」と、Samson Skyというこれまたベンチャーの「Switchblade」です。




Y:翼を畳んで公道を自動車のように走って、翼を拡げると飛行機として空を飛ぶ乗り物。率直に感想を言うと、昔のSF、未来世界の大道具、ですよね。
松浦:今、結構世界のあちこちで、空飛ぶクルマを作るベンチャーが立ち上がっているんですよ。オシコシに来ていなかった分でも、スロバキアのAeroMobil社が開発している「AeroMobil」とか、オランダのPAL-V社の「PAL-V ONE」とか。
飛行機が自作できる国は、自動車も自作できる
Y:検索してみると、日本でも、有志団体のCARTIVATORさんが挑戦しているようですね。
松浦:「空飛ぶ自動車(クルマ)」には、実は大きく2つの種類というか、目標があって、ひとつは「普通に自動車として使えて、しかも空を飛べる」もの。もうひとつは「クルマのように手軽に使える飛行機械」。地上走行は目指していないか、あまり重視していない、車輪が付いた大きなドローン、というイメージです。いま話しているのは前者です。
Y:え? つまりどこが違うんでしょう。
松浦:既存の交通法規に則って自動車に混じって道路を走れて、その上で空も飛べるのが、ここで言う「空飛ぶ自動車」ということですね。
Y:なるほど。で、「空飛ぶ自動車」って、本当にものになるんですか。
松浦:私はダメだろうと観ています。
Y:あらまあっさりと。ダメですか。
松浦:「あれもこれもできる道具」は「あれにもこれにも不十分」となる可能性が非常に高いです。五徳ナイフがどの用途でも使いにくいのと同じです。そもそも自動車と航空機では要求される性能が全く違います。どんなに頑張っても、最後はどっちつかずになると思います。歴史的にもさんざん試作され、結局ものになっていないですし。
でも、オシコシで実物を見て、こういうベンチャーが存在するということは「空飛ぶ自動車が技術的に実現できる/できない」だけで切って捨ててはいけないと感じたんですよ。
Y:それはどういうことですか。
松浦:つまり、米国をはじめとして諸外国では、航空機だけではなくて自動車も自作できる社会制度があるんですよ。だから「空飛ぶ自動車」を作る人たちが現れるわけです。
Y:そうか、公道を走る時は自動車だからナンバープレートを付けなければいけない。つまりクルマ関連の法的規制をクリアしなくちゃいけない。空を飛ぶ時は飛行機だから米連邦航空局(FAA)の認証を取得しなくちゃいけない。どっちも大手を振って自作機を運転なり操縦なりできる社会制度がないと、「空飛ぶ自動車を作ろう!」なんて発想は出てこないんだ。
松浦:連載で触れたとおり、米国の自作航空機が「Experimental」というカテゴリーに入るのは決して理由がないわけではなくて、まず試作機を作って飛ばさないことにはExperimentalではない実用的な機体を開発できるわけがないからです。そこら辺は自動車もバイクも、もっといえば電動自転車も無人のドローンも同じでしょう。ところが、これらも手軽に試作できる社会制度が日本にはありません。
Y:あー、航空機だけじゃない、と?
松浦:そうなんです。航空機だけの問題じゃないんです。「乗り物の試作と試験が極端に難しい社会制度が存在して、自由な技術革新を阻む」という、もっと根深い構造的な問題があって、それが航空機の認証にも現れているんです。
Y:光岡自動車も市販車への進出では大変な苦労をしたそうですし。そういえば、セグウェイもいつまで経っても日本では公道を走れるようにならないですねえ。
松浦:セグウェイ実現にあたっての技術的な核心というべき半導体加速度センサーやジャイロでは、日本は高い技術を持っているんですけれどね。
安心と利権が手を取り合って、試行錯誤がしにくい社会制度に
Y:そんな制度が形成された理由はなんでしょうね。
松浦:私はこの問題の要素は「新しいものを拒否してでも、安心を求める私たち」と「権限をどこまでも増やしていきたい官僚」の合作だと考えています。
Y:ん? 具体的にいきましょう。例えば……?
松浦:何か新しいモビリティが生活に入ってするとしますよね。鉄道でもいいし、自動車でもバイクでも、航空機でもいいです。最初は珍しい見世物だから人が寄ってくる。でも、生活の中に入ってくると今度は「入ってくるな」という反発が起きる。どうもこの反発が日本の場合強いんです。そして反発は「危ないから来るな」という形を取る。
根底にある考え方は「今日の生活を変えるな」です。「今日と同じ明日がある」ことに価値を見いだす姿勢ですね。つまり「今日の生活」は慣れているから安心なんです。この安心が明日も続いてほしいから、新しいものは生活に入ってくるな、となる。
Y:陸蒸気、いや、蒸気機関車の吐き出す火の粉で火事になったらどうするんだ、と、中心部から離れたところに駅ができた、みたいな。乗り物に限ったことじゃないですよね。パソコンが登場した時も、携帯電話が出て来た時も、スマートフォンが発売されたときも似たような反応がありましたっけ。
松浦:パソコンのOSですら「ウイスキーとOSは古いほど良い」なんて言葉もあったよね。
Y:いやまあ、それは、出たばっかりのOSはバグが多かったりしたからで……。
松浦:そう、そこ! そこはポイントだと思うんですよ。
松浦:新しいものは登場した当初は、だいたいにおいて未完成であってちゃちに見えるし、どうしても危険をはらむものなんです。でも技術はいずれ進歩するからどんどん安全で高性能なものになっていく。そして生活をより便利に快適に変えていくんですね。ところが最初のところで「危険じゃないか」といって反対してしまうと、社会に新しい技術が根付かず、停滞してしまうことになる。
そこで官僚の出番です。彼らは社会制度を作って、新しい乗り物が安全に使えるようにして、社会に定着させます。
Y:いいじゃないですか。
松浦:でも、同時に、利権も作っちゃう。しかも利権を作るにあたって、人々の「危ないから、日常の中で使ってくれるな」という心情を利用します。具体的にいうと「危ないから、安全性を確保するために国による許可制にする」とかですね。
しかも許可のための外郭団体を作って、そこに天下りの椅子を確保したりする。許可制度をちらつかせれば、関連企業ににらみを利かせることができるし、企業内にも天下りの椅子を作ることだってできます。
このやりかただと、規制を厳しくして新たな技術開発や自由な自作なんかを締め上げるほど、人々は「危ないことは国が規制してくれる」と安心し、同時に役所はより一層の利権を手に入れることができます。
軽自動車に生まれていた「試行錯誤」
Y:ううむ。ドローンも「事故が多発するまえに、早く公が規制せよ」という声があちこちから出て、おっしゃったような構図になってますねえ。その一方で、産業としてはすっかり中国のDJIに持って行かれた形になっているし。
松浦:自動車を巡る社会制度の歴史をたどっても、そういう構図が見えてきます。例えば1930年に車検制度がスタートした時は、商用車限定で自家用車に車検はありませんでした。自家用車の車検制度がはじまったのは第二次世界大戦後の1951年です。すぐに「交通事故が増加したから」という理由で1955年に自賠責保険が義務化されました。
この間軽自動車はずっと車検がありませんでした。実は軽自動車は、車検がなくてなんでもし放題という時代があったんです。が、1973年には軽自動車が増えたということで、車検が義務付けられるようになりました。
この間、車検は非常に検査項目が多く、かつわかりにくいために、専門業者でないと車検を受けるのが難しいという状況が続きました。車検制度が幾分緩和されて、点検項目が減り、ユーザー車検がちょっとだけやりやすくなったのは1995年、日米貿易摩擦の結果です。
Y:……。まあ、でも、安全になるのなら、それはそれでいいのではないですか。
松浦:確かにそれでいいという時代はあったんです。きちんと自動車という道具を社会の中に位置付けるために、とにもかくにも社会制度を作っていかなくちゃいけない時代が。
経済は拡大基調だったから、その中で官僚システムが利権を作っても許されたし、むしろ車検業者みたいな関連雇用を増やすということで、きびしい制度があるほうがいい、と考える向きもあったんです。でも、このやりかただと基本的に規制即利権ですから、規制が厳しくなることはあっても緩和はなかなかできない。それこそ米国に外交交渉でぼこぼこ叩かれてちょっと緩むとか、そんな程度です。
そこには「最小限の社会的コストで効率良く安全を確保するには、どんな制度がいいのか」という健全な問題提起は見あたりません。そして、今や、既存の枠に収まらないモビリティがどんどん、大変な速度で出現しています。
社会制度が技術革新とベンチャー魂を殺す
Y:そうか……セグウェイもそうだし、自動運転車もそうだ。自動運転車は自動車というよりも自律制御するロボットだし。
松浦:電動航空機もそういう新しいモビリティですよね。ドローンも、バーチャルリアリティと絡めて目や腕の機能をカメラやアクチュエーターとして遠くに飛ばす、と考えると、新たなモビリティという区分に入れてもいいでしょう。
松浦:大切なのは、そういう表に出てくる潮流だけじゃないということです。これら新たなモビリティの根底にはムーアの法則が支えて来た半導体技術の急速な進歩と、電池の大容量化や炭素系複合材料による軽量化に代表される材料の革新があります。半導体が進歩して、センサーを駆使した制御が高精度化し、材料が良くなり、しかも3Dプリンターのようなデジタル技術を駆使した新たな工作機械が一般化して、今まででは考えもつかなかったようなモビリティが出現しつつあるわけです。
一言でまとめると20世紀からの一大潮流である「デジタル化」が情報通信だけでなく、モビリティに及びつつあるんです。
Y:21世紀の新しい「デジタル・モビリティ」というわけですか。
松浦:そして、みんなの「新しいものは怖い」と官僚の「利権が欲しい」が手を取り合って形成してきた日本の社会制度では、これら新技術を前に進めるために必須の、多種多様かつ急速な試行錯誤を行うことができない――これこそが、私がオシコシでの見聞で感じた、最大の焦燥感です。
どんな技術も出始めは活発な試行錯誤が必須です。でも日本の制度だとその試行錯誤が非常にやりにくくなっています。
かつては制度そのものが存在しないから試行錯誤が容易だったんです。だから日本の自動車産業は成長できたといってもいいんじゃないかと思います。最盛期の昭和30年代には日本にはバイクは200社、自動車は30社もメーカーがありました。日本には旺盛なベンチャー魂があったんですよ。それが市場の淘汰を経て、生き残ったメーカーが世界に出て行ったんです。でも、今はそういう状況が制度的に作れなくなっています。
これは本当にまずいです。このままいくと日本はことモビリティに関して、技術立国どころか、世界から取り残された懐古列島になっちゃうでしょう。それも技術ややる気がないからではなく、社会制度が悪い、という理由からです。
「恐れる」だけでなく「楽しむ」ことも覚えたい
Y:じゃあ松浦さんは、どうすればいいと考えているんですか。
松浦:まず我々のほうは、「恐れる」ことだけでなく、「楽しむ」ことを覚えるようにできないかな、と思っています。
Y:具体的にはなんだろう。例えば、自衛隊の基地開放日に遊びに行ってデモフライトを楽しむ……というようなことですか。
松浦:各地のサーキットで開催されている草レースでもいいし、航空機だと、千葉市で毎年6月に開催されているレッドブル・エアレースなんかもいいですよね。




Y:相当の迫力だそうですね。一度行ってみたいです。でも、騒音が問題になっていませんでしたっけ。
松浦:ええ、近隣で「騒音がうるさい」という反対運動があるそうです。でも、なぜうるさく感じるかというと、それが自分と関係ないからなんですよ。どんな選手がどういう目標を持ち、どんな思いで飛んでいるかが分かると、騒音の向こう側にいる誰かが見えてきて、騒音は感情移入の対象になるんです。もちろん、反対している方に決して強制はできません。一方で、「知って」「楽しむ」ことで、単なる「うるさい」「あっちいけ」とは違う世界が開けるんですよ。
あるいは、子どもと一緒に模型飛行機や、現行の規制には引っかからない小さなドローンを飛ばしてみるというのもいいです。とにかく、新しいものが出て来た時に、「怖い」「危ない」じゃなくて、「面白そう」「やってみよう」と思う感性を磨いて行けたらな、と考えるんですよ。
Y:そういえば今年の春、八谷和彦さんの「メーヴェ」ことM-02Jのテストフライトに大学生と中学生の子供を連れて行きましたよ。「本当に人が乗って飛ぶんだ」と、ぽかーんとしてました(このプロジェクトの詳細はこちら)。
松浦:ああ、すごくいいじゃないですか。

Y:その日の夕方に、中学生の娘は「動画撮ったよね? マンションにいる友達に見せたい!」と、わたしのiPadをぶんどって行きました。大学生の息子の方も、飛ぶ姿をスマホの待ち受けにしてたなあ。
「失敗」に対してどう振る舞うか
Y:とはいえ、新しいものには危険がつきもの、というのも事実ですよね。
松浦:そう、次に出てくるのは「万が一にも事故が起きてしまったらどうするか」なんです。実のところ私たち日本人の事故に対する対応は、からっきしです。ド下手です。「責任があるのは誰だ、出てこい」「あやまれ」「弁償しろ」に偏っている。その結果「やめてしまえ」「二度とやるな」「そんなことできないように法律で規制しろ」となってしまいがちなんです。
Y:記事が炎上した経験があるので、あのプレッシャーは他人事ではなく分かります。あれを喰らうと、もうとにかく謝って引っ込もう、となるのは分かります。実際、地位ある人がずらっと並んで頭を下げるのが、すっかり普通になってしまいましたものね。
松浦:でも、頭下げさせて、溜飲は下がっても、何も問題は解決しないでしょ。本当に大切なのは「二度と同じ事故を起こさないためにはどうするか」なんです。「やめちまえ」というのは一番悪い対応です。未来を塞いでしまうのだから。
Y:あー、思い出しました。自動車レースのF1の日本グランプリ。1976年に始まってますが、翌1977年にレース車から外れたタイヤが観客に当たるという死亡事故が発生して、その後1987年まで10年間開催できなかったってことがありましたっけ。
松浦:昔からある「危ないからやめろ」の対応ですよね。でも本当に大切なのは「二度とそんな事故を起こさないためには何をすべきか」と考えて対策を実行することなんです。77年のF1の事故は立ち入り禁止区域に観客が入り込んでいたのが原因でした。だから本来は観客が入り込めない仕組みを作って、翌年も開催すべきだったんです。
松浦:この連載は航空を扱うものですから、航空機の事故を例に取りましょう。米国では国家運輸安全委員会(NTSB)という組織が事故調査を行います。非常に強い権限を持っていて、例えば関係者に免責特権を与えて証言を得ることができます。事故の原因となった者を罪に問わない代わりに、真実を話させて、次の事故を起こさないような勧告をまとめるんですね。この仕組みは、米国の航空産業の発達に大きく貢献していると思います。
Y:責任者を犯罪者として罰する、じゃないんですね。罰すれば溜飲は下がるけれど、次の事故を防げないから、許す。許すかわりに全部洗いざらい話させて、次の事故を防ぐ。
松浦:新しい技術は必ず危険を内包していると見たほうがいい。そこで、新しい技術を、より安全なものとして役立てていく社会的な仕組みが必要、というわけです。
Y:だんだん社会システムとしてどうすべきかという話になってきましたが、では、政府とか官僚システムはどうすればいいと思ってますか?
握った手を離して、宝物を取りだそう
松浦:今の許認可権限を握った官庁は、「壺の中の木の実を握ったままで手が抜けなくなっている猿」だと思っています。だから、実は答は簡単なんです。手を開いて木の実を手放せば、手は抜けるんです。
Y:握っている木の実は、おいしい利権ってことですね。
松浦:そう。1回利権を手放して、本当に必要な制度は何かをゼロから考えるべきだと思うんです。手を抜いた猿が壺を振れば、壺の中からは握りしめてた以上の木の実が転がり出るんですよ。
Y:手塚治虫の「ブラック・ジャック」にそんな話がありましたっけ(注:「昭和新山」というエピソード。講談社版手塚治虫全集では「ブラック・ジャック」17巻に収録)。噴火した昭和新山の山腹で大地の穴から腕が抜けなくなった男を、ブラック・ジャックがその場で腕の切断手術をして救助する話です。実はその男、穴の中で貴重な鉱物を握りしめていて、そのために抜けなかっただけって話でした。
松浦:「なんで腕を切った!」とわめく男にブラック・ジャックが「300万円で腕をつけなおしてやるぜ」って言い放つ。許認可権限を握っている官庁が、腕を切断される前に権限を一度手放せるかどうかが鍵でしょう。切断、つまり強権的に社会制度を変えざるを得ないとなると、社会的にどえらいコスト――下手するとかつての敗戦並みの――がかかることになりますから。
Y:敗戦って、そりゃ大げさな。
松浦:でも、昭和30年代からの高度経済成長の背景には、敗戦で旧体制が解体されたということが大きく効いていると思いますよ。朝鮮戦争の特需があったとか、冷戦体制の中で日本は有利なポジションを得たとか、もちろん色々な理由はありました。
それらがあったとしても、当時は今に比べれば、はるかに物事が高速に進みました。敗戦で頭を抑える旧体制がなくなったから、みんな必死で自分の頭で考え、素早く行動できたんですよ。
さっきデジタル・モビリティって、キーワードが出ましたけれど、これほどの大変革が来るのだから、官僚システムが「今日の続きの明日」を決め打ちで予想して作文し、行政を回したって、当たるはずがないんです。次世代の社会を構築するためには、いっぱい試行錯誤しなくちゃいけません。そのためにも、壺の中で握りしめている手は、いちど開くべきなんです。
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