ホームビルト機の差は意外に大きくなかった

 日本でも最初はライト兄弟の飛行に触発された者達が、自作で航空機の開発を始めている。日本初の国産航空機は奈良原男爵家の後継者である奈良原三次の手による奈良原式二号飛行機で、1911年5月5日に初飛行に成功している。同時期に大阪では皮革商の森田新造が航空機を自作し、同じく1911年4月24日に高度1m、距離80mのジャンプに成功している。

 1912年には千葉の稲毛海岸に、航空機自作を志す者が集まって機体を開発しはじめた。その中から設計者の伊藤音次郎(1891~1971)が頭角を現す。彼は伊藤飛行機研究所を設立して次々に飛行機を自作し、1916年1月8日には自ら設計製作した伊藤式恵美号で稲毛から離陸して東京の上空を飛行する帝都訪問飛行を実施するまでになった。

 その後、三菱、中島、川崎などを中心としたメーカーが軍需で技術力を伸ばす中、民間の航空機製造や体制作りもそれなりの速度で進んでいく。伊藤は1930年に日本軽飛行機倶楽部を結成し、日本における航空機操縦の普及を進めていった。1927年には航空法が施行され、逓信省の管轄で、自作航空機であっても安全に飛行できる機体であることを公的に認証する制度も整備された。

 1930年6月には海軍機関少佐の磯部鈇吉がドイツの航空雑誌に掲載された設計図を使ってグライダーを自作。民間機として日本初の認証を取得した。磯部はグライダー振興にも力を注いだ。彼の飛行がきっかけとなって自作グライダーの製作がブームとなり逓信省への認証出願が増えていった。やがて独自設計を行う者も現れる。当初、オリジナル設計は大学が中心だったが、やがて民間でも独自設計を試みる者が現れた。

 1935年には独学で航空工学を学んだ頓所好勝が、日本初の自作ハンググライダー「頓所一式」を完成させて飛行に成功している。同機は操縦者が自分で走って離陸するところから、ハンググライダーの祖とされているが、流線型の胴体を持つ本格的なグライダーだった。頓所一式は「国産懸垂式グライダー第一号」として、逓信省の認証を取得した。関西では1937年に琵琶湖畔大津市の天虎飛行場に関西アマチュア飛行クラブが結成された。ささやかではあるが、戦前日本でも確かに自作航空機に向けた動きは存在したのである。

 これらの努力は、太平洋戦争の敗戦ですべて無に帰すことになる。そして敗戦後の占領下での航空機の製造、研究、運航の禁止があり、それが解けた1953年には日本の航空技術は世界の最前線から周回遅れになっていた――というのが定説であるのだが……。

 それは決して間違ってはいない。しかし、ここで自分で作るホームビルト機を考えると、世界最高の技術は必要ではないことに気が付く。必要なのは、気軽に飛行機を作れて、飛ばせる環境なのだ。つまりホームビルト機をきちんと社会的存在として位置付ける法をはじめとした社会制度である。

もし戦後日本に「EAA」的組織があったなら

 戦前から戦時中にかけて、日本国内には軍が作った小さな飛行場がたくさんあった。現在そのほとんどは再開発で潰されてしまったが、1953年の段階では、まだかなりの数が残っていた。そんな飛行場を拠点にして自作航空機の振興を進めていれば――教官の人材となる旧軍のパイロットもまだまだ現役だったし、メーカーで軍用機の設計に携わっていた技術者もまだ若かった。そしてなによりも航空解禁と同時に、社会のあちこちでもう一度航空機を作って飛ばそうという組織が動いていた。

 どんなに小さくても、どんなにしょぼくても、飛行機を作って飛ばせば、そこで若者が育つ。育った若者は昭和40年代に入れば、社会に出て航空機産業で活躍することになっただろう。

 EAAの設立が、日本の航空解禁と同じ1953年である事は、大変に象徴的だ。少々極端に表現すれば、1953年までホームビルト機において日米は“ほぼ”並行していたとさえ言える。

 1953年といわずとも1955年(昭和30年)ぐらいまでに、EAAに相当する非営利組織が立ち上がって、ホームビルト機を日本社会において趣味として定着させる運動をしていれば、日本の航空産業は今とは大分違った様相になっていた可能性はあるだろう。そうならなかった時点で、一大国家プロジェクトだった国産旅客機YS-11のビジネス的失敗と、その後の後継旅客機開発の迷走は不可避だったのかもしれない。

 私たちは、ごく普通の人が当たり前に、技術的には大したことのない小さな飛行機に触れ、作り、操縦し、空に親しむということを、あまりにも軽視していたのではないだろうか。