「例外」として許可されている日本の自作機

 四戸哲・オリンポス社長のインタビューでも触れたが(「八方塞がりのMRJ、だからこそ前を向け」の3ページ目)、日本にはこうした制度が存在しない。だから、実験航空機は、きちんとした法的根拠を持っていない。航空法第11条「航空機は、有効な耐空証明を受けているものでなければ、航空の用に供してはならない。但し、試験飛行等を行うため国土交通大臣の許可を受けた場合は、この限りでない。」の「但し」以下の記述を「国土交通大臣の許可があれば実験航空機は飛行可能」と解釈することで運用されている。このため飛行ごとに国土交通大臣の認可を受けるという、通常の航空機とは異なる運用を強いられ、その都度煩雑な申請を行って許可を取得しなくてはならない。

 制度が、航空に関係する人の裾野の形成と技術革新の両方を拒んでいる状況である。

 では、この日米の格差はどのようにして発生したのか。

 AirVenture Oshkoshが開催されるウィスコンシン州オシコシのウイットマン空港。その近くにEAAはEAA Aviation Museumという航空博物館を開設している。ここの特徴は展示の中心が自作のホームビルト機であること。通常の航空博物館なら、軍用機にせよ民間機にせよ、メーカーが開発したエポックメイキングな機体が展示されるが、EAA Aviation Museumの主役は“自分で作った航空機”なのだ。当然、展示は「ホームビルト機の歴史」に沿って並んでいる。

EAA Aviation Museumの展示。ここではホームビルト機を主体とした、“もうひとつの航空史”が展示されている。

 同博物館で米国におけるホームビルト機の歴史を知り、日本の航空史と重ね合わせると、日米格差の成立理由が見えてくる。そして、その差は意外な位に小さい。

 日米の差――それは一言で言えば「1950年代半ばの時点でEAA(に相当する組織)を立ち上げたか否か」だったのである。

 以下、博物館の展示に沿って米自作航空機の歴史を見ていこう。

最初は「航空機=自作機」だった

 EAA Aviation Museumの展示は、1903年12月17日にライト兄弟が飛行に成功した「ライト・フライヤー」から始まる。考えてみれば当たり前の話、ライト・フライヤーはライト兄弟による自作航空機であり、航空機の祖であると同時にホームビルト機の祖でもあるわけだ。

 それからしばらく、第一次世界大戦ぐらいまでは、航空機=自作機、という時代が続く。ライト兄弟の成功を知って世界中で様々な人々が飛行機を自作し始めたからだ。どこにも売っていないから自分で作るしかなかったのである。

 そのうちに、航空機製造と販売で起業する者がぼつぼつと出始めたタイミングで、第一次世界大戦が勃発し、兵器としての航空機を供給する航空機産業が一気に立ち上がることとなった。