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航空のすべてがあるイベント「EAA AirVenture Oshkosh」――主催者は、実験航空機連盟(EAA:Experimental Aircraft Association)という非営利の民間団体だ。1953年設立。現在では国際的に支部を持ち、全世界で20万人以上の会員がいる巨大組織となっている。
オシコシの空に描かれたEAAの文字。AirVenture Oshkoshでは時折、空に航空機が文字を描く。
日本の感覚だとまずExperimental(実験的)という単語にひっかかりを感じるだろう。自作航空機(ホームビルト機)愛好家の団体なのに、なぜそこに「実験」が関係してくるのか。
この「実験」は、米国の航空関連法制度の中で定義されているものだ。航空法では、航空機を様々なカテゴリーに分類し、それぞれが満たすべき要件を定めており、その中でExperimentalというカテゴリーが定められている。これは新たな技術開発や試験を行う航空機のカテゴリーだ。例えば政府組織(NASAなど)やメーカーが製作して飛ばす技術試験用の機体が、このExperimentalに該当する。
自作機の制度設計で航空産業を発展させている米国
が、それだけではない。
実は、自分で作るホームビルト機は法制度上、このExperimentalのカテゴリーに入る。つまり個人が作る航空機は「個人による技術開発、実験である」ということになるわけだ。
ホームビルト機には、Experimentalという文字が書き込まれている。これは米航空法におけるExperimentalのカテゴリーで機体登録ナンバーを取得していることを意味する。
Experimentalカテゴリーの機体は、1機ごとに米連邦航空局(FAA)の認証を取得し、「この機体はきちんと飛べる」ということをオーソライズされて、機体ナンバーを取得して「飛んで良い機体」になる。運用にあたっては市街地上空を飛行できないなどいくつかの制限が付くが、基本的には量販されている自家用機と同じ手順で運用することができる。 このExperimentalというカテゴリーが法的に確立していて、しかもExperimentalの機体を飛ばすまでの社会的手続きが明確に規定され、実効的に運用されていることにより、ホームビルト機という趣味は社会的に確立したものとなっているわけだ。
自作を公的に認めることにより、航空技術の幅広い裾野を形成すると同時に、技術開発をやりやすくして、航空技術の進歩を加速する――そういう制度設計である。
EAAはホームビルダー(自宅へ飛行機を製作する人のことをこう呼ぶ)向けに、認証取得のノウハウをまとめたガイドを販売している。
提出用書類、チェックリスト、機体に貼るシール類など、至れり尽くせりの内容である。
「例外」として許可されている日本の自作機
四戸哲・オリンポス社長のインタビューでも触れたが(「八方塞がりのMRJ、だからこそ前を向け 」の3ページ目)、日本にはこうした制度が存在しない。だから、実験航空機は、きちんとした法的根拠を持っていない。航空法第11条「航空機は、有効な耐空証明を受けているものでなければ、航空の用に供してはならない。但し、試験飛行等を行うため国土交通大臣の許可を受けた場合は、この限りでない。」の「但し」以下の記述を「国土交通大臣の許可があれば実験航空機は飛行可能」と解釈することで運用されている。このため飛行ごとに国土交通大臣の認可を受けるという、通常の航空機とは異なる運用を強いられ、その都度煩雑な申請を行って許可を取得しなくてはならない。
制度が、航空に関係する人の裾野の形成と技術革新の両方を拒んでいる状況である。
では、この日米の格差はどのようにして発生したのか。
AirVenture Oshkoshが開催されるウィスコンシン州オシコシのウイットマン空港。その近くにEAAはEAA Aviation Museumという航空博物館を開設している。ここの特徴は展示の中心が自作のホームビルト機であること。通常の航空博物館なら、軍用機にせよ民間機にせよ、メーカーが開発したエポックメイキングな機体が展示されるが、EAA Aviation Museumの主役は“自分で作った航空機”なのだ。当然、展示は「ホームビルト機の歴史」に沿って並んでいる。
EAA Aviation Museumの展示。ここではホームビルト機を主体とした、“もうひとつの航空史”が展示されている。
同博物館で米国におけるホームビルト機の歴史を知り、日本の航空史と重ね合わせると、日米格差の成立理由が見えてくる。そして、その差は意外な位に小さい。
日米の差――それは一言で言えば「1950年代半ばの時点でEAA(に相当する組織)を立ち上げたか否か」だったのである。
以下、博物館の展示に沿って米自作航空機の歴史を見ていこう。
最初は「航空機=自作機」だった
EAA Aviation Museumの展示は、1903年12月17日にライト兄弟が飛行に成功した「ライト・フライヤー」から始まる。考えてみれば当たり前の話、ライト・フライヤーはライト兄弟による自作航空機であり、航空機の祖であると同時にホームビルト機の祖でもあるわけだ。
それからしばらく、第一次世界大戦ぐらいまでは、航空機=自作機、という時代が続く。ライト兄弟の成功を知って世界中で様々な人々が飛行機を自作し始めたからだ。どこにも売っていないから自分で作るしかなかったのである。
そのうちに、航空機製造と販売で起業する者がぼつぼつと出始めたタイミングで、第一次世界大戦が勃発し、兵器としての航空機を供給する航空機産業が一気に立ち上がることとなった。
こうして航空機という道具の存在が世に知られるようになると「こんなものなら自分でも作れそうだ」と、ぼつぼつと航空機を自作するアマチュアが出現しはじめた。1927年5月、チャールズ・リンドバーグがニューヨーク・パリ間単独無着陸飛行を成功させて、大ニュースとなった。これにより航空に興味を持つ者の数が一気に増加した。
最初のホームビルト機の誕生
最初のホームビルト機と目されているのが、1928年にBernard H. Pietenpolという技術者が設計・製作して初飛行に成功した「エア・キャンパー」という機体だ。Pietenpolは独学で航空工学を修め、自分のためにエア・キャンパーを設計した。主翼の下に胴体をつり下げるパラソル型という形式で、主な材料はスプルース(マツ科トウヒの樹木。北米では一般的な建材)の角材とベニヤ板。作りやすく、安定性が良く操縦しやすいという特徴を持っていた。
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エア・キャンパーの飛行。初飛行から90年を経て、エア・キャンパーは今も世界のどこかで作られ、飛んでいる。これはスウェーデンで作られた機体(再生すると音が出ます)。
Pietenpolは設計図と製造のためのマニュアルを出版・流通させた。図面とマニュアルがあれば、後は器用な手先と少々の道具、機体を作る場所に完成まで粘る根気とで、確実に飛行することが保証された機体を作ることができる。このため、アメリカだけではなく欧州でもエア・キャンパーを作る者が現れ、世界的ヒット作となった。さらには、知的所有権にうるさくないアマチュア向けの設計のためか改良型・改造型も次々に出現した。エア・キャンパーはPietenpolが1960年代まで機体の改良を行ったため、息長く世界各地のアマチュア・ホームビルダーによって製造され続けた。
1930年代に流通していたホームビルト機の設計図やマニュアル類(右)。
1930年代、図面やマニュアル、そして関連書籍という形でホームビルト機の情報は拡がっていった。ただし、この時点でのホームビルト機はきちんと社会制度としてオーソライズされたものではなかった。米商務省の調査によると、1930年末の時点で米国内には2464機の法的にはグレーな未登録航空機が存在し、そのかなりの部分が自作のホームビルト機だったという。
このため、制度の整備が進むにつれて「野放しは危険である」とホームビルト機に規制がかかりはじめた。機体登録の維持の手間は増大し、コストもアマチュアの負担できる額ではなくなっていった。1939年には第二次世界大戦が始まる。安全のための規制強化と戦争――ホームビルト機の活動は縮小し、そのまま終わってしまうかに思えた。
レースと長距離飛行、そして資金力と政治力
第二次世界大戦終結後の米国におけるホームビルト機の復興は、意外にもエアレース――複数の機体が周回コースを同時に飛行して順位を競うスカイスポーツ――から始まった。米国では1920年からNational Air Raceというエアレースが開催されていた。第二次世界大戦中は中断していたが、1946年、タイヤメーカーの米グッドイヤーがスポンサーに付き、National Air Raceが復活する(その後1950年まで毎年開催)。1947年、このレースに「ベビークラス」という超小型機のカテゴリーが新設された。ところが、このクラスに合致する市販の機体が存在しなかった。なければ自分で作るまでのこと――戦争を乗り越えたホームビルダーたちは、レース用の機体を作るところから、飛行機の自作に復帰していったのである。
エアレースに参加する自作機は、今でも技術革新の源泉のひとつである。この機体はリノ・エアレース(毎年9月にネバダ州リノで開催される大規模なエアレース)の「スポーツクラス」というカテゴリーで2007年に優勝した「ネメシスNXT」(ただしこの機体は優勝したその機体ではなく同型機)。最高速度は600km/hを超え、かつての零戦よりもはるかに速い。そんな機体が、オシコシでは当たり前のように展示参加していた。
さらに、ホームビルト機をきちんと社会の中に位置付けられたものにしようとする運動も始まった。1947年にはGeorge Bogardusというパイロットが「Little Gee Bee」というホームビルト機で、オレゴン州からワシントンD.C.までの米大陸横断飛行を実施した。これはホームビルト機が十分な安全性を持っていることを社会にアピールすることを目的としたデモンストレーションだった。民間におけるこれらの活動を受けて、米国では1948年に法制度の中にホームビルト機というカテゴリーが新設された。
1947年に北米大陸横断飛行を行ったホームビルト機「Little Gee Bee」。この機は現在、時代を代表する機体としてスミソニアン航空宇宙博物館に展示されている。(画像:Smithsonian Institution)
そして1953年、ウィスコンシン州在住の起業家でアマチュアパイロットであったポール・ポベリッツニー(Paul Poberezny)が自宅を本部として自作航空機愛好家の非営利団体であるEAAを立ち上げる。ポベリッツニーは同時に、米メカニクス・イラストレイテッド誌にホームビルト機の記事を寄稿してその普及に努めた。EAAは瞬く間に会員を増やし、米国内における趣味・愛好家の団体としては最大規模にまで成長し、海外にも支部を設けていった。会員数が増えたことにより、EAAは資金力と政治力の両方を手に入れ、その力でホームビルト機が社会制度によりオーソライズされた趣味となる環境を整備していったのである。
ホームビルト機の差は意外に大きくなかった
日本でも最初はライト兄弟の飛行に触発された者達が、自作で航空機の開発を始めている。日本初の国産航空機は奈良原男爵家の後継者である奈良原三次の手による奈良原式二号飛行機で、1911年5月5日に初飛行に成功している。同時期に大阪では皮革商の森田新造が航空機を自作し、同じく1911年4月24日に高度1m、距離80mのジャンプに成功している。
1912年には千葉の稲毛海岸に、航空機自作を志す者が集まって機体を開発しはじめた。その中から設計者の伊藤音次郎(1891~1971)が頭角を現す。彼は伊藤飛行機研究所を設立して次々に飛行機を自作し、1916年1月8日には自ら設計製作した伊藤式恵美号で稲毛から離陸して東京の上空を飛行する帝都訪問飛行を実施するまでになった。
その後、三菱、中島、川崎などを中心としたメーカーが軍需で技術力を伸ばす中、民間の航空機製造や体制作りもそれなりの速度で進んでいく。伊藤は1930年に日本軽飛行機倶楽部を結成し、日本における航空機操縦の普及を進めていった。1927年には航空法が施行され、逓信省の管轄で、自作航空機であっても安全に飛行できる機体であることを公的に認証する制度も整備された。
1930年6月には海軍機関少佐の磯部鈇吉がドイツの航空雑誌に掲載された設計図を使ってグライダーを自作。民間機として日本初の認証を取得した。磯部はグライダー振興にも力を注いだ。彼の飛行がきっかけとなって自作グライダーの製作がブームとなり逓信省への認証出願が増えていった。やがて独自設計を行う者も現れる。当初、オリジナル設計は大学が中心だったが、やがて民間でも独自設計を試みる者が現れた。
1935年には独学で航空工学を学んだ頓所好勝が、日本初の自作ハンググライダー「頓所一式」を完成させて飛行に成功している。同機は操縦者が自分で走って離陸するところから、ハンググライダーの祖とされているが、流線型の胴体を持つ本格的なグライダーだった。頓所一式は「国産懸垂式グライダー第一号」として、逓信省の認証を取得した。関西では1937年に琵琶湖畔大津市の天虎飛行場に関西アマチュア飛行クラブが結成された。ささやかではあるが、戦前日本でも確かに自作航空機に向けた動きは存在したのである。
これらの努力は、太平洋戦争の敗戦ですべて無に帰すことになる。そして敗戦後の占領下での航空機の製造、研究、運航の禁止があり、それが解けた1953年には日本の航空技術は世界の最前線から周回遅れになっていた――というのが定説であるのだが……。
それは決して間違ってはいない。しかし、ここで自分で作るホームビルト機を考えると、世界最高の技術は必要ではないことに気が付く。必要なのは、気軽に飛行機を作れて、飛ばせる環境なのだ。つまりホームビルト機をきちんと社会的存在として位置付ける法をはじめとした社会制度である。
もし戦後日本に「EAA」的組織があったなら
戦前から戦時中にかけて、日本国内には軍が作った小さな飛行場がたくさんあった。現在そのほとんどは再開発で潰されてしまったが、1953年の段階では、まだかなりの数が残っていた。そんな飛行場を拠点にして自作航空機の振興を進めていれば――教官の人材となる旧軍のパイロットもまだまだ現役だったし、メーカーで軍用機の設計に携わっていた技術者もまだ若かった。そしてなによりも航空解禁と同時に、社会のあちこちでもう一度航空機を作って飛ばそうという組織が動いていた。
どんなに小さくても、どんなにしょぼくても、飛行機を作って飛ばせば、そこで若者が育つ。育った若者は昭和40年代に入れば、社会に出て航空機産業で活躍することになっただろう。
EAAの設立が、日本の航空解禁と同じ1953年である事は、大変に象徴的だ。少々極端に表現すれば、1953年までホームビルト機において日米は“ほぼ”並行していたとさえ言える。
1953年といわずとも1955年(昭和30年)ぐらいまでに、EAAに相当する非営利組織が立ち上がって、ホームビルト機を日本社会において趣味として定着させる運動をしていれば、日本の航空産業は今とは大分違った様相になっていた可能性はあるだろう。そうならなかった時点で、一大国家プロジェクトだった国産旅客機YS-11のビジネス的失敗と、その後の後継旅客機開発の迷走は不可避だったのかもしれない。
私たちは、ごく普通の人が当たり前に、技術的には大したことのない小さな飛行機に触れ、作り、操縦し、空に親しむということを、あまりにも軽視していたのではないだろうか。
電波帯域を得て生き延び、発展したラジコン模型
実は、航空機と親しい関係にありながら、すこし違った動きがあったために成長することができた産業がある。無線操縦模型――ラジオコントロール模型の産業である。ラジオコントロール模型は電波を使用するので、そのための電波帯域を公的に確保しなければならない。日本では1950年に電波法が制定され、それに基づく電波帯域の分割が進んだ。ラジコンの帯域確保は玩具・模型メーカーなどの業界団体の要請によって1957年に行われたが、当初郵政省は「遊びのために貴重な電波帯域を使うことはできない」という態度だった。
ところで当時、自由民主党に園田直(そのだ・すなお 1913~1984)という実力派代議士がいた。彼は戦時中は陸軍空挺隊に所属していた「空の経験者」であり、自らも模型飛行機を飛ばす大の模型好きでもあった。園田が動いたことで、ラジコンは27MHz帯と40MHz帯の電波帯域を確保することができた。この時、電波帯域が確保できていなかったら、「外国ではラジコンで遊べるのに、日本では遊べない」ということになっていたかもしれない。
そして、模型飛行機、特に本物と同様の操縦が可能なラジコン航空機模型こそは、子どもが親しみ、長じて航空分野を目指すようになる、「航空の孵卵器」とでもいうべき存在なのである。
EAA Aviation Museumのバート・ルータンを顕彰する展示の冒頭部分。ルータン初のホームビルト機「バリ・ビゲン」(上)の下のショーケースには、十代のルータンが作った模型飛行機が展示されている。
EAA Aviation Museumは、航空機設計者バート・ルータン(1943~)関連の展示に建物の一角を割いている。それほどまでにルータンの業績は大きい。ホームビルト機のキット販売から始めて、無着陸無給油の世界一周飛行を成し遂げた「ボイジャー」、無着陸無給油・単独飛行による世界一周飛行を達成した「グローバルフライヤー」、民間機として世界初の高度100kmの宇宙に到達した「スペースシップワン」などを開発――それらの展示の一番先頭には、ティーン時代のルータンが作った模型飛行機が、20代の彼が作った最初のホームビルト機「バリ・ビゲン」と並んで展示されている。
模型飛行機、ホームビルト機、そして数々の世界記録を達成した技術的に先鋭な機体――これらはルータンの経歴の中で、一直線に並んでいるのである。
(次回に続く)
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