P-51:米ノースアメリカン製戦闘機。1940年初飛行。第二次世界大戦における戦闘機の最高傑作の呼び声高い大成功作。高速性能、航続距離、運動性能、武装のすべてに優れ、大戦末期はドイツや日本の戦闘機に対して圧倒的優位を誇った。

P-51戦闘機(画像:NASA)

エドガー・シュミード(1899~1985):米国の航空機設計者。ドイツに生まれドイツの教育を受け、後にブラジル経由で米国に移住。ノースアメリカンでP-51戦闘機を設計した。「どんな愚か者にでも設計を批判することはできる。しかし最初の設計を行うためには天才が必要だ」という言葉を残している。

後退翼:現在の旅客機にみるような、後ろに大きく反った主翼の形式。音速に近い速度域での空気抵抗を軽減する効果がある。ドイツは第二次世界大戦前からの研究の蓄積で、戦中にほぼ後退翼の理論を完成させており、あと少しで実用化できるところまで進んでいた。

F-86:米ノースアメリカンが開発したジェット戦闘機。1947年初飛行。ドイツから得たデータに基づく後退翼を装備しており、朝鮮戦争では同じくドイツからのデータに基づいた後退翼を装備した旧ソ連の戦闘機ミグ15と互角の空中戦を繰り広げた。我が国の航空自衛隊も、1955年から1982年にかけて、F-86を主力装備として使用した。ちなみに、東京オリンピックの開会式(1964年10月10日)にあわせて、東京上空に五輪の輪を描いたのも、このF-86であった。

F-86戦闘機(画像:米空軍)

B-47:米ボーイングが開発したジェット戦略爆撃機。1947年初飛行。後退翼を装備した米国初の爆撃機である。この機体を開発することで後退翼の効果を実感したボーイングは、続けて後退翼を装備した同社初のジェット旅客機「707」を開発し、現在に至る「ボーイング旅客機帝国」の礎を築くこととなった。

B-47爆撃機。写真の機体は偵察型のRB-47(画像:米空軍)

クルト・タンク(1898~1983):ドイツの航空機設計者。ナチス・ドイツの主力戦闘機のひとつ「フォッケ・ウルフFw190」を設計した。戦後はアルゼンチンやインドなどで、ジェット戦闘機開発の指導を行った。

ルートヴィヒ・プラントル(1875~1953):ドイツの流体力学者。航空機主翼の理論を体系化し、ゲッティンゲン大学に風洞を設置して、翼に関する基礎的データを系統的に収集した。流体の熱伝導における重要な無次元数「プラントル数」にその名を残している。

翼型:翼を進行方向と平行な方向に縦に輪切りにした時の断面形状のこと。この形状は、航空機の性能に決定的な影響を与える。このため、ゲッティンゲンのプラントルチームは、組織的な翼型の研究とデータの蓄積を行い、米国のNACAはそれをさらに徹底して押し進めた。

四戸:もうひとつドイツの戦後の対応として、早い時期に占領軍と交渉して無動力のグライダーだけは解禁に持ち込んだことが大きかったと思います。「エンジンがついている飛行機だったら戦闘に使われる可能性もあるでしょう。だけど動力がないグライダーなら戦闘に使えないから構わないでしょう」というロジックで交渉を行って解禁を勝ち取ったんです。これは、ドイツのエンジニアが航空機に賭けた情熱の結果だと思います。

編集Y:ああ、前回お聞きしたお話と繋がりますね。グライダーを開発することが許されれば、次世代のエンジニアを育てることができる。次世代が育てば希望を託することができる。

グライダーは航空人材を育てる「空のゆりかご」

四戸:さらには日本の場合、朝鮮戦争での特需があって、エンジニアが自動車産業や電気産業など各方面に散っていったわけですが、ドイツはそんな特需はありませんから航空エンジニアがあまり離散しなかったということも影響していると思います。グライダーが許されたことで、将来に希望を持って不毛の時期を耐えることができたんです。

松浦:あ、それは第一次世界大戦の時と同じですね。第一次世界大戦でもドイツは負けて、ヴェルサイユ講和条約で軍用航空機の配備が禁止されるんですが、海外向けの航空機の製造と販売は禁止されなかったんです。だから戦後、航空エンジニア達はみんな会社を興して戦争中に培った技術で海外向けの飛行機の生産を始めるんです。