四戸:ここにあるR-53の主翼を観て下さい。ご覧になって分かる通り、この機体の構造は第二次世界大戦以前の技術で設計されています。つまりそのレベルのノウハウしか、当時の開発者達は使えなかったんです。

松浦:桁で荷重を受けていますから、モノコックにもなってないですよね。技術としては1930年代のものではないですか。

四戸:そうです、30年代です。

松浦:40年代ですらない。

四戸:違います。1940年代にはもうすでにモノコックの時代に入っていましたから。この主翼は構造様式で言うと2本桁構造といいます。完全に30年代の構造です。ですから、戦後解禁されて、さあ、スタートだとなったときに、日本人が独自にやったのは、今で言うホームビルト航空機レベルの機体の開発だったんです。つまり、航空解禁の段階で、すでに戦争中に蓄積したノウハウが散逸しちゃってたんです。

 ノウハウが散逸した一番の理由というのは、やっぱり高度経済成長の始まりだったと思います。自動車、鉄道、船に優秀なエンジニアがほとんど行きましたので。当時飛行機をもう一度ゼロから技術を積み上げて作ろうという人は非常にアナーキーな印象を持たれたんです。

エアロスバルFA-200:富士重工業(現スバル)が開発した単発の軽飛行機。1965年に初飛行。軽快な運動性を発揮する機体で、曲技飛行にも使用可能。1977年までに299機が生産され、ビジネス的にもまずまずの成功を収めた。

エアロスバルFA-200
エアロスバルFA-200

三菱MU-2:三菱重工業が開発した双発ビジネス機。1963年に初飛行。ライバル機と比べ高速性能に優れていた。1987年までに762機が生産され、事業としても成功を収めた。

三菱MU-2
三菱MU-2

R-53:新立川飛行機(現立飛ホールディングス)が、1954年に完成させた単発軽飛行機。同社は商業化を望んだが、構造が旧式なこともあり購入希望者が現れず、1機のみの試作で終わった。

N-52:日本大学工学部と岡村製作所(家具の「オカムラ」ブランドで知られる)が開発した単発軽飛行機。1953年初飛行。

モノコック:構造物の強度を、中を通す柱や桁に受け持たせるのではなく、外板全体に受け持たせる構造のこと。柱がない分内部容積を大きくすることができ、かつ構造は簡単になる。実際の航空機は完全モノコック構造ということは少なく、必要に応じてモノコックと桁を使う構造を併用している。

ホームビルト航空機:アマチュアが自分で作る自作航空機の事。自宅のガレージや裏庭などで飛行機を作り、自分で操縦して飛ぶ。欧米では大人の趣味として確立しており、自作航空機を合法的に操縦、飛行させるための法制度・社会制度も確立している。

日本の航空機技術者は米国からの「無制限情報」で中毒に

松浦:自分でオリジナルの航空機を作ろうとしても、技術的には数十年遅れのものしかなく、周りの見る目も冷ややかだったということですね。

四戸:その一方で、冷戦体制の中で防衛庁が設立されて自衛隊ができました。すると米軍の戦闘機をライセンス生産するという仕事が発生するわけです。

 大きなメーカーにとっては大変ありがたいことです。それだけではなく、大メーカーのエンジニア、それも最先端技術を見る眼を持つエンジニアほど、米国からの情報に吸い寄せられたんです。当時のロッキードとかグラマンとかから来る図面というのが、あまりに新鮮なんですよ。ですから、決して束縛されたわけじゃなくて、エンジニアの目から素直に見ても、次々に流れてくる米国の最新機種の図面は、もう夢の国から流れてくる宝物のようで、夢中になっちゃったんです。

次ページ MRJが“飛べない”現状はこのとき決まった