松浦:欧州はそんな状態として、航空大国の米国はどうなんでしょうか、
四戸:米国は軍人上がりのパイロットがいっぱいいて、その中から民間航空のパイロットを選抜しています。
なにか言いたいかというと、適性という面で見ると、日本の企業人の育て方、サラリーマンの育て方というのはあまりにもおっとりしているんです。
だからまず、競技用グライダーを開発して、作り手、乗り手を増やすことで、学生レベルからの日本の航空の地力を底上げしようと思ったんです。諦めざるを得なくて、ほんとうに残念でした。
グライダー:動力を持たない滑空機。ゴム索で引っ張ったり、他の航空機で牽引したりして離陸、上昇気流をつかまえて飛行する。高性能の機体は高度1万mにも到達するし、曲技飛行も可能。世界では操縦技量を競う様々な競技会が開催されている。日本の大学の航空部が運用する機体も多くはグライダーである。
マイスター:職人の技量の認定制度のこと。認定を受けた者をマイスターと呼ぶ。ドイツを中心にドイツ語圏には古くから、若い時から専門教育を受けた職人の腕前を公的に認定する制度がある。この制度は現在も存続し、機能している。
高度経済成長でエンジニアは散り、ノウハウは散逸した
松浦:今日僕が四戸さんに会いたいなと思ったのは、MRJの不調がきっかけなんです。四戸さんは、開発が始まった段階から「大丈夫かな、危ないんじゃないかな」という話をしていましたよね。
四戸:そうですね。
松浦:それがまさに今的中しつつある。初飛行は遅れ、試験も遅れ、今や当初計画から8年遅れです。これはどういうことなんでしょう。昭和27年に航空解禁になった時、本当にみんな希望にあふれて「また飛行機が作れるぞ」と飛行機を作り出したのに……そして1970年頃はけっこう良いところまでいっていたのに、今また、なぜこういうことになっちゃったんでしょうか。1952年に航空解禁になった時って、日本中でわーいと喜び勇んで飛行機を造り始めているんですよね。
四戸:そうです。
松浦:なぜかというと、7年前の戦争中は作っていたんだから、今だってできるって考えたからですよね。
四戸:そうなんです。
松浦:その勢いがあってYS-11まであっという間にいっちゃうし、富士重工業(現スバル)はエアロスバルFA-200を作った。三菱のMU-2だって成功した。
四戸:MU-2はビジネス面でも大成功でしたよ。
松浦:ところがだいたい1970年ぐらいから急に減速して、あとはグダグダ状態になって、今に至るわけです。今またMRJで持ち上げようとしているけれども、「この間って、日本の航空機産業は何やっていたんだろう」というのが第一の疑問です。
何か根本的なところに問題があったんじゃないか。というのも、別に日本人は飛行機を嫌いでも何でもないですからね。
四戸:そうです。
松浦:自分で作った飛行機で空を飛びたい、と思っている人は実際いるし、今そういう人たちがどこに行っているかといったら、作る側では日本テレビが開催している鳥人間コンテストへの参加だし、飛ぶ側ではスカイスポーツのパラグライダーかハンググライダーに行っています。
そこから何で軽飛行機に行かないのか、あるいは自分で作るホームビルト飛行機へと進まないのか。探っていくと、1つは法律とか制度の問題に行き着きます。
四戸:はい。
松浦:そこで、技術から制度に至る航空の問題を全体として俯瞰する立場にいて、一番詳しいのは四戸さんだろうと思ったんです。自分で飛行機を設計して、造って、法律や制度の壁にぶつかっている経験は、日本では私が知る限り四戸さんがナンバーワンです。四戸さんなら、その壁のいいところも悪い面も全部知り尽くしているだろうと判断して、お話をお聞きできればと思ったわけです。
四戸:そうですね……僕も言いたいことが固まりになっちゃっていて、喉に引っかかるような話なんですけれど(笑いながら見回す)……ここにあるR-53という機体は1954年に初飛行しています。
松浦:航空解禁の直後ですね。
四戸:そうです。この時期、例えば私の大学の先輩もN-52という航空機を作っています。航空解禁の直後は結構こういうことをしていた時期があるんです。ただ、産業という面から考えると、高度経済成長、朝鮮戦争、そして引き続いて起きたベトナム戦争の影響が非常に大きかった。
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