「使えない上司」が「使えない部下」を生む悪循環

 私が問題視しているのが、森さんが指摘されていることです。つまり、管理職に、部下を評価する資質や技能、技術、責任感や使命感などがあるのか否か、です。管理職はオーナー経営者のようなリスクを背負えない以上、その言動や、部下の育成や評価には常に「一定の節度や常識」が求められなければいけないはずなのです。その節度や常識の1つが、部下を正しく評価をする技能や技術、そして心や考え方ではないでしょうか。

 私は、会社員の頃に10人以上の上司に仕えました。的確に評価をする技能や技術を持ち合わせていると思える人は、1~2人でした。特に部下の評価となると、ほとんどの上司が、要領を得ていないように思いました。部下の仕事の進捗やぶつかっている問題、それへの取り組みなどを正確に把握できていない。にもかかわらず、1次考課者として評価をするのです。2次考課者である本部長は少なくとも、彼ら1次考課者の評価を覆すこともしなければ、それが事実であるか否かも確認していないようでした。

 これと同じ構造は、企業社会を広く見渡すと、社長や役員が、本部長や部長を評価するときにもあるように思えるのです。その意味で森さんとのやりとりで思い起こしたのが、昨年暮れに別の媒体で取材をしたときにうかがった次の言葉です。取材のテーマは、「使えない上司・使えない部下」。

健全な疑いを放棄し、中間管理職を信じる社長や役員

:部下を潰してしまうような「使えない上司」でも、社長や役員から見ると、よく見えることがおそらくあるのでしょう。例えば、「彼は、明確な考えをもって指導している」「あの課長は、部下に丁寧に教えている」などと見えるのだと思います。

 「管理職とは、こういう仕事をするものなのだ」とふだんから具体的に考えていないということもありえます。多くの会社は、非管理職から管理職に昇格させるとき、たとえば営業部なら稼いだ額など、個人としてのパフォーマンスだけをもとに、「この社員はいい!」と評価する可能性が高いのです。

 漠然とした理由で昇格させているから、部署のマネジメントにおいて何かの問題が生じたときも、「どこにどのような問題があるのか」と分解して、具体的に考えることができない。結果として、選んだ管理職を必要以上に性善説で見ることになりかねないのでしょう。

 私がコンサルタントとして接した社長や役員の多くは、管理職をおおむね信じているように思います。少なくとも、管理職を疑いの目で見る社長や役員は少ない。信じるあまりに、管理職に「丸投げ」になってしまいかねない場合もありえます。本来は、健全なる疑いを放棄することなく、「客観的に見ること」が必要なのです。