「欠けている」ことこそが、実はその人らしさ

 次に、キモイ奴やトロい奴は今後、どう生きていくべきなのかを考えてみます。彼らに共通しているのは、足元を見失っていることです。前回の記事(「キモイ奴の名刺は、シュレッダーにかけなさい!」)に登場するキモイ奴が、「全国紙では…」と盛んに語るのが、その1つの象徴です。

 彼らは、出版社に勤務する編集者です。不本意であろうとも、そこで仕事を覚え、一定の実績を残すべきでした。そんな不満を聞かされる周囲の編集者たちにも配慮をするべきでした。

 キモイ奴やトロい奴は、自分を高いところにおいているのでしょう。自尊心が高いのかもしれません。しかし、彼らには、新聞社の採用試験では合格できなかったという現実が突き付けられています。

 「第一志望に落ちた=不遇」なのでしょうか。第一志望の職種に就けなかったとはいえ、今の職場で編集者として働くのは、そんなに不幸なことなのでしょうか。私は逆に、恵まれた立場だと感じます。一定の収入を得て、結婚し、家族も養っています。このことは、すばらしいことではないでしょうか。家族を養うだけの収入を得ることができない人は、世の中にたくさんいます。

 今の状況から幸福を感じ取る力がない人は、自分が持ちあわせていないもの、欠けているものを必死に探し、得ようとします。それをつかむことができないと致命的と思い、克服しがたい劣等感を抱えます。

 「欠けている」ことこそが実はその人らしさであり、アイデンティティーなのです。私でいえば、小説家である宮本輝さんや三浦綾子さんのようになりたい、と30年以上前から思っています。ただ、残念ながら、そのような力がないのです。

 50年近く生きてきて、「欠けていること」が、私らしさだとようやく思えるようになりました。この心境になるのは、苦しいことです。「自分には、自分が期待したほどの力がない」という現実を受け入れる必要があるからです。

 この壁を乗り越えると、しだいに発想を変えます。宮本さんや三浦さんのような作家に書けないであろうことを書くようになります。たとえば、会社員の頃、言い争いなどを繰り返し、許しがたい思いを抱いた上司がいました。その上司と過ごした時間を礎に、会社員としての無念さ、屈辱感、組織の冷酷さなどを書いていくほうが、自分らしいと思えるようになったのです。