緊急着陸だって?

 さて、次のステップです。この人の血圧低下の原因は何だろうか?

 私の頭の中には、いくつかのシナリオがありました。まず致死的なものとして、

1. エコノミークラス症候群(肺塞栓症)
2. アレルギーによるアナフィラキシーショック
3. 緊張性気胸
4. 心筋梗塞や脳梗塞

 など。そして現実的に可能性が高く、軽症なものとして、

5. 低血糖
6. 迷走神経反射

 などを考えました。

 救急の現場では、これらの中からまずは命に関わる病気でないことを確認していく作業(除外診断と言います)を行います。まず、2だったらアレルギーですから顔が赤くなったり皮膚にブツブツが出たりするでしょう(いつもがいつもそうではありませんが)。だからこの可能性は低い。次に1. エコノミークラス症候群(肺塞栓症)と3. 緊張性気胸だったらどうか。これらはどちらも肺の病気ですから、胸を診察せねばなりません。レントゲンとCT、採血検査をしたいな……と思いましたが、残念ながら私の武器はペラッペラの安物聴診器のみ。仕方ないと、聴診器を胸に当てました。すると……何も聞こえません。なんと、飛行機の中ではエンジン音がかなりのボリュームでずっと聞こえていますから、聴診器で聞くかなりか細い呼吸の音が聞こえないのです。これはまずい。特に3. 緊張性気胸だった場合、30分も放っておいたら心臓が止まります。〇〇航空、頼むからもうちょっといい聴診器入れといてくれ……そう恨みながら、必死で呼吸音を聞きました。私はこの瞬間、生まれてからこれまでで一番集中したような気がします。すると実に微かではありましたが、胸の上下左右で音が聞こえ、これらの可能性も低いだろうと判断しました。

 あと残るは4. 心筋梗塞や脳梗塞ですが、これらだった場合、私になすすべはありません。呼吸が止まったら口からチューブを入れて人工呼吸をし、心臓が止まったら心臓マッサージをするだけです。もちろんそれらは根本的な治療ではありませんから、救命できる可能性は高くありません。

 その時、チーフと呼ばれるキャビンアテンダントが話しかけてきました。「ドクター、緊急着陸の必要はありますか? ロシアの上空だから今からでも最低2時間はかかるし、着陸しても病院があるか分からないけれど」

迷いに迷った決断

 私は絶句しました。今この状況で、判断しなければならないのか。目の前の人に何が起きているのかさっぱり分からず、ようやく胸の音を聞いただけなのに……。しかし、緊急着陸をしてロシアの病院に行ったところで会話ができない。医療レベルも分からない。降りるべきか、降りないべきか……。10秒ほど悩んだあげく、私は「今は緊急着陸の必要はない」と答えました。根拠は、ありません。この人が死んだら私はかなり非難されるでしょう、誤った判断をしたとして。しかし、数百人を乗せた飛行機を降ろし、しかもあるかどうかも不明なロシアの病院に運ぶことを選択するよりは、自分がこのまま付き添い、欧州の大きな空港に着いたほうが生存率が高いと判断をしたのです。実に苦しい判断でした。30歳の、医者になって4年の私が決めたのですから。