医師はどれほど中毒を知っているか

 このような患者さんを医学では「中毒」というジャンルで扱われます。実は、この中毒について、医師はあまり学んでいません。私が救急に携わっていた頃は、中毒の患者さんが来るたびにいちいち本やネットで調べていました。前述したように、有機リン中毒の患者さんを私は診たことがありませんので、遭遇した時に思い浮かべることができるか、正直言ってあまり自信がありません。

 ただ日本では、呼吸が停止するか、しそうな患者さんは基本的に「3次救急」と言って、最も高度な救急医療を施せる「救命センター」などに運ばれます。そうした病院には必ず、救急の専門医がいます。

 そこで、知人の救急専門医の資格を持つ医師に「このような患者さんが空港から運ばれてきたら、正しく診断して治療できるか」と聞いてみました。すると、こんな答えが返ってきました。

 「正直なところ、かなり難しい」

 そして、こう続けました。

 「有機リン中毒の患者さんは診たことがあるが、そういう患者さんは必ず、倒れていたところに農薬の入れ物が転がっているというような情報があったため、すぐに有機リン中毒だと分かった。金正男氏のケースのように、全く情報がないところで、患者さんの症状だけで診断することは救急専門医にとっても容易ではない」

 ナント!私は驚きました。救急専門医でも診断は難しかったのです。

 「では、どうすればいいのか」と聞くと、「中毒や災害などの特殊な領域に専従している医師であれば、診断できる可能性は高い。また、そのような中毒の患者さんの治療は全て定められた治療フローに従ってやっていくことになっている」とのことでした。この辺りの見解は、救急の医師によって異なるでしょうし、病院のある地域によって診療経験(診断能力)にも差があるため、違ってくるかもしれません。

 「日本でVXガスによるテロが発生した場合、救命は容易ではない」。これが本稿での結論になります。

 本稿が、医師への啓蒙になることを祈ります。

 ※本記事は一般の方向けに分かりやすく書いているため、医学的な厳密さを欠いている表現があります。VXガス中毒や有機リン中毒についての診断や治療を学びたい方は、専門書をご参照ください。

この記事はシリーズ「一介の外科医、日々是絶筆」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。