EUは、世界大戦で分断された地域内のヒト、モノ、カネの動きを制限する壁を極力排除して、経済において1つになろうという反ブロックの試みだった。政治的な対立は経済の統合によって緩やかに解消されていくという理念に基づき、多国間で流通する通貨「ユーロ」を導入するという野心的な実験も試みた。

 WTOの基本的な精神は、加盟国のすべてに「最恵国待遇(最も有利な待遇)」を与える、というものだ。ブロック経済は、ある国が、特定の国に対して関税を優遇し、別の国に対して高い関税を課すことで形成される。WTOが目指した自由貿易の枠組みは、そうした関税の恣意性を排除して、加盟したすべての国に対してひとしく有利な待遇を与えるという考え方に立っている。

 完璧ではないが、最善ではある。政治システムにおけるそれが民主主義だとすれば、経済システムにおけるそれは資本主義ということになる。上記のように、民主主義は人間についてその「存在」における平等を旨とするが、一方で資本主義はその「働き」(によって得たマネー)における平等を旨とする。資本主義の強欲化に対する批判は、やはり「この塩は塩辛すぎる」の類のものと言っていい。

 だが、戦争の惨禍を経て、人類はエゴノミクスがそもそも経済的にも得策でないことを悟ったはずだった。

 ブロック経済は持てる国と持たざる国、先進国と新興国の対立を生んだだけではない。ブロック化によって世界の貿易が縮小したことで世界経済の成長は停滞し、小さくなっていくパイを流出させまいとしてますます障壁を強化する悪循環を生んだ。短期的には「富が流出しなかった」と喜んでも、長期的には世界で生まれる富の総量を減らす結果にしかならず、戦争のコストを含めなかったとしても、自国経済にとっても必ずしも有利にならなかったはずだ。

 残念ながら、エゴノミクスを乗り越えるために自由貿易の枠組みとして生まれたGATTと、それを発展的に解消して生まれたWTOは、その理念通りには機能しなかった。貿易の完全自由化を目指して段階的に議論を進めて来たが、2001年以降、その議論は止まってしまった。上記のように全加盟国に等しい待遇を与えることを基本理念とするため、意思決定の基本は「全会一致」を原則としており、先進国と新興国との利害対立を回収できなくなってしまったためだ。

 以降、国と国が一対一で結ぶ貿易協定が主流となったが、世界各国がそれぞれ国家間で交渉するコストが膨大なものになるため、地域間で交渉をまとめようという動きが出てきた。環太平洋経済連携協定(TPP)はその流れの中で生まれたものだ。20世紀のブロック経済のような宗主国が植民地を縛ることで形成するものではなく、地域の国々が対等に貿易の門戸を開きあうことを原則としている。世界規模ではないが、広域の国家間でWTO的な価値観を実現しようという試みだったと言えるだろう。

 だが、2016年、エゴノミクスが生んだブロック経済に対する反省――ひいては世界大戦への反省が生んだEUに英国が、TPPに米国が、否を突きつけた。

ナショナリズムという「土俗的で自然な感情」

 司馬遼太郎は『坂の上の雲』の中で、ナショナリズムというものを「民族がもっている決して高級ではないがごく自然な感情――たとえば自分の村を愛して隣村をののしったり、郷土を愛してその悪口をいわれると腹をたてたり、といったふうの土くさい感情」と表現している。

 ギリシャやイタリアなどEUにおいていくつかの国が危機にあるのは、経済を統合するために加盟国間の障壁を引き下げたものの、人々が生まれ育った場所を離れることができなかったり、自身が就いている仕事を離れることができなかったりしたからだ。米国でTPPを敵視するトランプを最も熱烈に支持したのは、かつて製造業で栄えた町で仕事を失った白人層だった。彼らもまた、IT産業に転じることも、そのために西海岸に移転することも考えもしない人たちだろう。

 良い悪いではなく、これらの事実は、人間がナショナリズムという土俗的な感情から自由になることは難しいということを私たちに改めて突き付けている。