斎藤:当時は会社も小さかったと思いますが、どうやって自社商品を作ろうと考えたのですか。

大山:私はどうしたらいいだろうと必死で考えました。当時は金属や木、竹の道具をプラスチック製に切り替えたいという需要が多かった。これはビジネスチャンスだと考え、21歳の時に養殖用のブイを自社開発しました。おかげさまでこれがヒットし、そこから水産業だけでなく、農業の田植えに使う育苗箱を木箱からプラスチックに変えるなど、次々と新商品を作り出し、時代の流れに乗って会社はどんどん大きくなっていきました。

 東大阪の工場だけでは製造が追いつかず、宮城県に工場をつくったのは26歳の時です。この時に宮城県を選んだのは、やはり農業向けの製品は東北地方の需要が大きいだろうと判断したからです。

オイルショックで家族同然の社員を解雇

斎藤:いくつかのカベを若さで乗り越えて、会社を成長軌道に乗せられたんですね。しかし、ときには、うまくいかないこともあると思います。これまでで最大のピンチは何だったのでしょうか。

「大山社長のお話には、企業が成長するためのヒントがたくさんある」と、斎藤氏

大山:ちょうど宮城県に工場をつくったのと相前後して起きた、オイルショックですね。プラスチックはすべて石油からできていますので、かなり大きな影響を受けました。10年間かけて貯めた資金が、わずか2年間で底をつき、倒産寸前になるという地獄を味わいました。

 多くの企業は、儲かる製品があると増産しようと次々に投資をしますが、好況の時期は続かない。好況があれば今度は必ず不況が来るんです。それが現実の市場経済なんだと、オイルショックのときに学びました。

 その時、やむなく社員を解雇したんです。東大阪の工場は自宅とつながっていましたから、私が小さい頃は社員の皆さんと一緒に食事をして、家族同然でやってきたんです。

 それが結果的には社員に給与を払えなくなってしまい、東大阪の工場を閉めて宮城県の新しい工場に集約する判断をしました。今のように新幹線や飛行機などの交通機関もまだ便利ではなかったですから、大阪から宮城についてくる社員は少なかった。結局、退社してもらうしかなかったんです。それしか会社が生き残る道はありませんでした。

 そこからは、もう二度と社員の解雇はしたくないという強い思いを持ってきました。