他方、北京五輪後からロンドン五輪まで指導し、銅メダルを獲得した寺川綾は違いました。寺川は、私の指導を受ける前の2004年にアテネ五輪に出場した実績と、2008年の北京五輪に出られなかった挫折経験を持つ、いわゆる“キャリアがある”選手でした。すでに長いキャリアのある社会人選手を4年というスパンでメダリストに育てるには、北島や上田のように実績がない選手を子供の頃からじっくり育てる方法ではうまくいきません。

 どのように指導していこうかと考えた時、東京スイミングセンターの先輩で、現日本水泳連盟会長、青木剛さんの言葉を思い出しました。私がまだ若い時、速い選手の泳ぎを大きく修正することの善し悪しについて青木さんに訊ねたことがありました。すると、「将来、大きなマイナス面となるものから着手して克服した方がいい」という言葉をいただきました。聞けばそれは、かつてミュンヘン五輪ヘッドコーチを務めた小柳清志さんの言葉でした。

 泳法においても指導法においても日進月歩の水泳界ですが、時を越えて大事にされてきた言葉にも、学ぶべきことが多々あります。最新の情報にアンテナを張ることも、未知の取り組みにチャレンジすることも、過去の経験から学ぶことも、いずれもが「選択肢」を増やすことになります。大事なのは、常に多くの選択肢を持ち、最善の一手を選ぶことです。

マイナスから始める

 その時の寺川の指導には「マイナス面から着手」が最善と考えました。4年という短いスパンで結果を出すには、寺川がメダリストになるには何が必要か。様々な要素を考えた末に「メダル獲得の足かせとなると危惧される短所の克服を後に回さず、まずそこから取り組む」と方針を定めました。

 しかし、実績がある選手を預かり、短所の修正から着手するのは勇気が要ります。実績がある選手は自分なりの競泳に対する考えを持つ、我が強いタイプが多い。自分なりの考えを持つことは決して悪いことではありませんが、そこに固執して前に進めないのは問題です。

 そして、短所克服にうまく着手できるかどうかは、コーチと選手の関係性も大きく関わってきます。例えば、コーチが実績のある選手のご機嫌を伺いながら言いたいことを言えないような関係では、短所を指摘し、変えようとはなかなか言い出せないでしょう。選手もコーチとの信頼関係が築けていない状態で、自分がそれまでやってきたことを変えるのは容易ではありません。納得できずに反発するか、あるいは怖がって本気で取り組むことができないといった事態も起こり得るでしょう。

 私は寺川がチーム平井に入った時、一切特別扱いをせず、他の選手と平等に接することを徹底しました。実績のある選手は周囲から特別扱いをされることが“普通”になっていることが多いもの。コーチには「常に自分のことを見てもらえる」と思っていた寺川にとって、私の特別扱いしない態度は驚きだったと思います。もちろん、私も寺川を嫌っているわけではなく、そうすることが必要だと考えてのことです。

 コミュニケーションをとることは重要で、私も常に大事にと心がけていますが、ともすれば「仲良くなれればOK」と考えている人も多いように思います。しかし、それは違う。私は選手に好かれようと思いながら指導しているわけではありません。選手に結果を出させたいから指導をするわけで、それには自分の言葉がしっかり届かねばなりません。その言葉には、誰からかけられても心地いい褒め言葉だけではなく、厳しい言葉も含まれます。本人の耳には痛い話もしっかり届くようにする。それがコミュニケーションを深めることの意味だと思います。

 寺川には「私は特別扱いはしない。そして、こちらのアドバイスは嫌な顔をせずに聞きなさい」と指導者としてのスタンスをはっきり示しました。言いなりになれ、ということではありません。大事なのは、それまでの自分のままではダメだと気づかせること。そして、自分に足りないことから目を背けずに向き合うこと。そういう状態になってこそ弱点克服に取り組めると考えてのことでした。