米市民に保障されている権利の侵害

このISDS条項がなぜ、クリントン氏が主張する「米国の雇用を創出し米労働者の賃金を上げ、米国の安全保障を増進すること」の妨げになるのでしょう。

高濱  「風が吹けば桶屋が儲かる」的なところがあるかもしれません(笑)。その点について労組の幹部、ラリー・コーエン全米通信労組(CWA)委員長はこう述べています。クリントン氏の言い分を代弁しているとみていいでしょう。「ISDS条項は外国企業に対して、国家を国際仲裁(国連あるいは世銀)に訴える権利を与えるものだ。外国企業が利益を増大させるために、米政府を国際仲裁に訴え、米国の市民に保障されている権利を犠牲にすることなど到底許されるものではない」

 またTPP反対派のシェロッド・ブラウン上院議員(民主、オハイオ州)は、こう指摘しています。「TPP協定交渉を行ってきた通商代表部(USTR)当局者たちは、米消費者の権利を守る担保はあると言っている。が、多国籍企業がTPP協定を盾に、米国民の健康や安全を守る米国内法に挑戦してくることだってありうる。それを防ぐだけの強力な文言を協定に盛り込む必要がある」

となると、クリントン氏が大統領になった暁には、米政府はTPP協定の再交渉を要求してくることになるのでしょうか。

高濱  TPP協定全文を書き直すのではなく、ISDS条項に関する補完協定(Supplement Agreement)のようなものを要求してくることが考えられます。

 しかしクリントン政権が「TPP協定の見直し」を言い出せば、他の条項に不満を持つ議員たちがいろいろ注文をつけ出すでしょう。例えば米製薬業界の後ろ盾として知られる議会共和党の大物議員、オリン・ハッチ上院財政委員長は「バイオ医薬品のデータ保護期間を12年にすべきだ」(合意内容では短縮されている)と主張しています。同議員は上院における「TPP推進派」の一人です。

「レームダック会期」での批准は不可能?

話を少し戻します。現協定を議会で批准させようという動きはどうなっているのですか。つまり自分の政権のうちにTPP協定を批准するんだというオバマ氏の願望、「レガシー(遺産)」作りの目論見はどうなりそうですか。

高濱  独断と偏見で言ってしまうと、その目論見はほぼ実現不可能になってきました。オバマ大統領の「頼みの綱」だった「TPP協定賛成派」の下院共和党トップのポール・ライアン下院議長(ウィスコンシン州)までが8月4日、「TPP協定について議会の承認を望むなら協定内容の一部手直しや再交渉が必要だ」と言い出しています。ライアン氏からも引導を渡されてしまったわけです。

 オバマ政権は大統領選、上下両院選で新しい大統領、新しい上下両院議員が選ばれる11月8日以降、来年1月の新議会招集前までの「レームダック(死に体)会期」にTPP協定を批准しようと必死です。

 ワシントンの政界事情通の、元政府高官は筆者にこう述べています。「オバマ政権は8月12日、TPP協定の審議入りに必要な行政上の手続き、行政措置の説明文を議会に送付して、一応、手は打った。しかしオバマ大統領はともかくとして、USTRあたりは諦めているのではないのか」。

 「クリントン大統領が誕生し、コートテール現象(Coattail Effect=便乗効果、米国政選挙で大統領候補の人気にすがって同じ党の候補が当選する現象)で民主党候補が圧勝、上院の過半数を取るようなことになると、合意したTPP協定の批准などは夢のまた夢だ。TPP協定に賛成している上院議員は共和党議員が多い。共和党は伝統的に自由貿易主義に賛成する傾向が強い政党だからです。とくにレーガン政権以降、その傾向は強まりました。逆に民主党にはTPP協定反対派が多い」。

 「クリントン大統領が公約通り、合意している協定の一部手直しをUSTRに命ずることになれば、外交交渉が再開する。TPP協定が実際に発効するには相当時間がかかりそうだ」

安倍首相は秋の臨時国会でTPP協定承認案と関連法案の審議を再開する見通しです。が、協定発効のカギを握る米国が再交渉を要求したりすれば話は大きく変わってきますね。

高濱  米国では、外国との協定と予算はホワイトハウスではなく議会が決めると言わています。外交交渉は行政府がやりますが、合意した協定を認めるか認めないかは議会が決める。これまでにも貿易協定については相手国と合意したあとに議会の要請を受けて、再交渉したり、補完協議をしたりしたことは何度かあります。

 例えば、1992年12月に締結した北米自由貿易協定(NAFTA)。クリントン政権は環境と労働基準に関する条項について、カナダ、メキシコと補完協議しています。同協定が発効したのは1994年でした。

 また米韓自由貿易協定(KORUS FTA)はジョージ・W・ブッシュ政権の時に交渉妥結しましたが、自動車と牛肉をめぐって追加交渉をしました。発効したのは2012年でした。今回も再交渉となる可能性は十分にあり得ます。
("The North American Free Trade Agreement(NAFTA)," M. Angeles Villarreal, Congressional Research Service, 4/16/2015)
("The U.S.-South Korea Free Trade Agreement(KORUS FTA): Provisions and Implementation,"Brock R. Williams, Congressional Research Service, 9/16/2014)