債券市場が警告を発することができず、米有力格付会社が警告しないとすれば、財政規律をチェックする最後の防衛線は、「社会の木鐸」とも言われるマスコミになるのだろうか。

 朝日新聞は10月4日の朝刊1面に、「財政軽視 『未来』の切り売り」と題した論説を掲載。安倍首相が消費増税の使途変更などで求めるのは「痛みの受容」ではなく、「痛みを先送りして給付を手厚くするという易き(やすき)選択肢への賛意だ。これは結局、私たちの『未来』の切り売りではないか」と述べるなど、相当厳しい指摘を行った。

立ち位置をどうすべきか、マスコミも迷い始めているように見える

 だが、世代・時代が変わっていき、情報入手ソースが多様化し、価値観が変わってくる中で、伝統的な価値観やそれを唱える伝統的なマスコミから距離を置く人が、若い世代を中心に徐々に増えてきている(当コラム10月3日配信「若い世代に『常識』が通じなくなった?」ご参照)。

 筆者が年少の頃は、両親が毎日つけて見ているNHKの7時のニュースには相応の権威のようなものがあった。新聞の多くの論調はどれも似たようなもので、共通の価値観が幼いころから形成される素地があった。しかし近年は、テレビを見ない・持たない、新聞を読まない・とらない若者や家庭が着実に増えている。すると、価値観が共有される度合いは自ずと小さくなり、情報源が偏る場合には抱く主義主張が先鋭化することにもつながり得る。

 そうした中、伝統的なマスコミの側も、「偏向報道」ではないかといった指摘が政治の世界やインターネット上でしばしば浮上するなど従来と違った環境の中で、自らの立ち位置をどうすればよいのか、迷い始めているように見える。

 今年になってから首相官邸との対決姿勢が目立つ東京新聞は、昨年(2016年)3月29日の朝刊に、「メディア観望 両論併記は公平公正か」と題したコラムを掲載していた。そこから一部を引用したい。執筆した記者の迷いと、専門家の助言を得つつ出てきた最終的な結論が記されていた。

そして「財政健全化」を訴える者はいなくなった?

 「アベノミクスの成果を強調したい政府は、正当性を主張するため、都合の良い数字で説明することを好む。では、メディアは、政府の主張をどう伝えるべきなのか」

 「統計などの政府発表を正確に伝えることは、新聞の『記録性』を考えれば一つの役割ではある。しかし、それだけでは存在意義を問われかねない。偏りを指摘されることを恐れ多用される『両論併記』も問題が多い。肯定的と否定的な意見を両方掲載し判断は読者に委ねるという体裁は、記者にとって『逃げ』でもあるからだ。メディアに詳しい専門家は『両論併記では現状維持の力の方が強く働く。質的な公正さにも多角的な論点の提示にもならない』と指摘する」

 「昨今、安倍政権は『政治的公平性』について踏み込み、メディアの報道に介入しようとする場面が多い。公平性とは何なのか。キャスターの岸井成格氏は『政治的公平性は権力が判断することではない。政府が言うことだけを流していれば、公平性を欠く』と説く。先の専門家も『社会に問題提起をしていくのがジャーナリズムの本来の役割』とメディアに奮起を促す。政府の言う『公平性、公正性』にとらわれず、逃げず、問題意識を提示していきたい」

 また、日本には米国の共和党のような「小さな政府」志向の強い政党が見当たらない。また、今回の衆院選の各党の公約を見ると、財源が不明確なまま(要するにしっかりした中長期の財政健全化意識が伴わないまま)、「大きな政府」に傾斜しているものが目立つ。事実上「北朝鮮解散」とも言える今回の衆院選では、消費増税や財政全般も一応は争点になってはいるが、国民に「我慢」を強いる財政規律強化を前面に出している政党は見当たらない。

 「財政健全化の必要性」というコンセプト自体の存続が、この国では徐々に危うくなってきているのではないか。筆者は最近、そうした憂慮の念を強くしている。