日銀・黒田総裁が2013年4月、2年で2%の物価上昇率目標を掲げ、量的・質的金融緩和政策を導入してから4年5カ月が経った。その後、「マイナス金利」「イールドカーブ・コントロール」などの政策を追加したものの、目標は達成できず出口は見えないままだ。(写真:ロイター/アフロ)
筆者は1990年から銀行および銀行系証券会社でマーケットエコノミストを務めており、「チーフマーケットエコノミスト」という肩書を1994年に日本で初めて名乗った「元祖」だと自負している。所属する部門の関係で直接関わりを持ったのは、外国為替市場・短期金融市場・債券市場の3つである。
コール市場は市場規模を何とか維持しているけれど…
短期金融市場では、指標である無担保コール翌日物金利が0%台にステイする超低金利時代が1995年7月の「七夕低め誘導」によって始まった後、量的緩和によって多額の超過準備(預金準備率をクリアするために積み立てが必要な残高を超えた日銀当座預金の残高)が常態化する中、すなわちインターバンク市場に資金があり余って「ジャブジャブ」の状態が当たり前になる中で、金融機関相互の資金取引の必要性が低下し、市場規模は縮小した。
デフレ構造が日本経済に根付いているため、安倍首相退陣をうけた「アベノミクス」の修正といった政治面での大きな変化でもない限り、金融引き締めによる無担保コール翌日物金利の上昇は見込み難い。だから、金利観の変動に基づく取引の活性化が期待できない。テクニカルでこみいった話になるので詳細には触れないが、日銀当座預金の3層構造に基づく裁定取引などにより、コール市場は市場規模を何とか維持している状態である。
「イールドカーブ・コントロール」で市場機能は激しく低下
いま最も問題視すべきは、債券市場の極度の機能低下である。日銀の大規模な長期国債買い入れ、および長期金利にもターゲットを設定した「イールドカーブ・コントロール」によって、市場のダイナミズムは失われており、長期国債先物の1日の値幅が10銭未満にとどまる日が珍しくない。指標である新発10年債の取引が業者間取引で成立しない日もある。
債券市場では、短期および中期ゾーンで日銀の金融政策運営が主要な材料になる一方、長期および超長期ゾーンではそれに加えて、今後想定される景気や物価動向、財政規律の強弱といった多様なリスクファクターが織り込まれて、相場水準が形成される。
そして日銀は、市場が想定している景気・物価の今後をイールドカーブ(利回り曲線)の形状などから貴重なシグナルとして読み取り、景気後退の懸念が出ていないか、インフレ面の対応で政策運営が誤っている恐れはないかなどをチェックする。また、国債を発行している政府の当局者は、財政規律の緩みを債券市場が警告する形で超長期ゾーンを中心にリスクプレミアムが拡大して金利が上昇する場合、その事実を真摯に受け止めた上で、財政規律を維持しようとするメッセージを何らかの形で示すのが常である。
債券市場は「日銀依存の需給相場」と化している
このような政府・日銀のありようと密接に関わっている債券市場が備えているべき機能が、異次元緩和の下ではほとんど失われてしまっている。日銀と市場関係者の意見交換会などの場では、「このままでは債券市場の貴重なインフラが失われてしまう」というような危機感が込められた発言が市場関係者の側から数多く出てくるが、「アベノミクス」の一環で「物価安定の目標」2%の達成を金科玉条としている今の日銀には通じるはずもない。
日銀短観(短期経済観測調査)や鉱工業生産といった主要な経済指標の数字をチェックする債券市場のディーラーやトレーダーは著しく減っており、それらの発表日を知ろうとしない人も少なくない。債券市場が「日銀依存の需給相場」と化しており、経済指標は相場を動かす材料にならないからである。債券市場の機能低下は日々じわじわと進んでいる。
では、株式市場はどうだろうか。「株価上昇=善」と固く信じているかのようにコメントする人が圧倒的に多いこの市場の関係者の間からも、日銀の異次元緩和の一環である年間約6兆円のETF(上場投資信託)の買い入れによって、株価指数が不自然に高止まりしたり、特定銘柄の浮動株が減少して相場水準がゆがんだり、日銀の間接保有比率が上昇して「物言わぬ株主」の比率が上がったりするのを問題視する声が、最近は増えている。
TOPIXはファンダメンタルズ対比で割高感
ファンダメンタルズとの対比で考えた場合、東証株価指数(TOPIX)には割高感がある。筆者は以前から、「マネー経済」の代表的な数字として東証1部時価総額を取り上げる一方、実物経済の代表的な数字として名目GDP(国内総生産)、および日本企業の海外支店収益も含んでいる名目GNI(国民総所得)に注目し、両者の比率を見ることによって「TOPIXがファンダメンタルズ対比で割高か割安か」を推し量るツールにしている。ここで、いわゆる「バフェット指標」の計算方式である名目GDPとの対比だけでなく、名目GNIとの対比も独自の発想で行っているのは、日本でも大手企業を中心に海外収益比率が上昇しており、これが株価に反映されている実態を考慮したものである。
東証1部時価総額は今年6月末時点で593兆4957億円(同じ時点のTOPIXは1611.90)である。この時価総額が500兆円を超える局面が長く続いて定着したことはない<■図1>。もっとも、上場企業数・上場株式数が時間の経過とともに普通は増えていくことを考えると、持続可能な「天井」がだんだん高くなっていく面があることも否めない。
■図1:東証1部時価総額(月末、普通株式ベース)
注:2001年までは整理銘柄を除く。(出所)JPX
そこで、実物経済の代表的な数字との比率をチェックして、マネー経済が「水膨れ」している兆候の有無を見るわけだ。東証1部時価総額の4-6月期名目GDPに対する比率は109.3%<■図2>、名目GNIに対する比率は105.8%である<■図3>。
■図2:東証1部時価総額(四半期末)の名目GDP(国内総生産)比
(出所)内閣府、JPX資料より筆者作成
■図3:東証1部時価総額(四半期末)の名目GNI(国民総所得)比
(出所)内閣府、JPX資料より筆者作成
いずれも基準となる100%を超えており、割高感ありと判断される。
株価水準が人為的にかさ上げされた不自然な状況
ただし、「だからTOPIXは急落するはずだ」という結論になるわけではない。日銀による大規模なETF買いによって、日本の株価は需給面からPKO(プライスキーピングオペレーション)的に持ち上げられており、これが終わる時期が全く見えないからである。日銀が掲げている2%の「物価安定の目標」が達成されるメドが全く立たない以上、異次元緩和は事実上エンドレスの状態である。したがって、株価水準が人為的にかさ上げされた不自然な状況は、予見し得る将来、このまま続いていくことになるだろう。
最後に、為替相場についても状況を見ておきたい。債券市場や株式市場に比べ、一国の政策当局がこの市場を牛耳るのは、きわめて困難である。それでも、2%の物価目標達成の「短期決戦」に失敗した日銀は、昨年9月に「長期戦・持久戦」態勢に切り替えることによって、向こう数年間の日本の金融政策のベクトルを「緩和方向」に事実上固定し、持続的な円売り圧力を市場で生みだすことに成功している。
購買力平価に対し、円安ドル高方向へのかい離が継続
為替市場ではいま、「各国中央銀行の金融政策のベクトル」が最大のテーマになっている。米国のFRB(連邦準備理事会)は利上げを断続的に実施して金融政策の正常化を模索しており、ベクトルは「引き締め方向」。日本との差は歴然としている(なお、賃金・物価の上がりにくさゆえにFRBの利上げ路線は近く行き詰まり、利上げ局面は終了して為替は円高ドル安に動くと筆者は予想しているのだが、それはまた別の話なのでここでは詳述しない)。このため、為替相場の長期的な均衡点の目安とされる購買力平価(PPP)から、ドル/円の市場実勢は、円安ドル高方向に大きくかい離した状態が長く続いている。
ドル/円の購買力平価の計算手法はさまざまであり、どの物価指標を用いて基準年をどこに設定するかなどにより、数字は変わってくる。筆者の場合、以下の2つを用いている。
①日米の輸出デフレーターを用いて試算したドル/円購買力平価(1973年平均が起点)<■図4><■図5>
■図4:ドル/円購買力平価① 日米の輸出デフレーターを使用した試算値と市場実勢
(出所)内閣府、日銀、米商務省資料より筆者作成
■図5:同上 市場実勢とのかい離率(プラスは円安方向、マイナスは円高方向)
(出所)内閣府、日銀、米商務省資料より筆者作成
日米の輸出デフレーターから試算される2017年4-6月期時点の購買力平価は、87.04円であり、市場実勢(2017年6月末東京市場17:00時点)からの円安方向へのかい離率は28.8%である。昨年11月の米大統領選でトランプ候補が勝利した後の「トランプラリー」におけるドル高がそうしたかい離に寄与した部分もあったわけだが、基本的には、2013年4月から行われている日銀の異次元緩和が事実上「エンドレス」になっているため、かい離率がヒストリカルに見て円安ドル高方向でかなり大きくなっていると認識すべきだろう。
②日本の企業物価指数(国内需要財・最終財<国内品>)と米国の生産者物価指数(最終需要向け・最終財)を用いて試算したドル/円購買力平価(1973年平均が起点)<■図6><■図7>
■図6:ドル/円購買力平価② 日本の企業物価指数(国内需要財・最終財<国内品>)と米国の生産者物価指数(最終需要向け・最終財)を用いた試算値と市場実勢
(出所)日銀、米労働省資料より筆者作成
■図7:同上 市場実勢とのかい離率(プラスは円安方向、マイナスは円高方向)
(出所)日銀、米労働省資料より筆者作成
日米の卸売段階の物価指数から試算される2017年8月時点の購買力平価は77.21円であり、市場実勢(2017年8月末東京市場17:00時点)からの円安方向へのかい離率は43.1%という、非常に大きなものになっている(過去最大は2015年7月の57.9%である)。
すでに述べた通り、購買力平価は長期的に考える場合の為替水準の目安であり、図からも見てとれるように、通常はそれをはさんで市場実勢は上下に振れる。だが、日銀が異次元緩和を始めた2013年以降は、円安ドル高方向への大幅なかい離が常態化している。
「債券市場」「株式市場」「為替市場」いずれもゆがんだまま
このように見てくると、大規模な長期国債買い入れの継続によって先行きの景気・物価および財政規律に関するシグナルを発信する機能が消えてしまっている債券市場、多額のETF買い入れによって需給面から下落する余地が狭まっており人為的な水準底上げが起こっている株式市場に加えて、為替市場でも、日銀による大規模で異例の金融政策の長期化によって、相場形成がゆがめられている面があると言えそうである。
そうなっている間、水面下では不均衡を是正する方向(=円高ドル安方向)でエネルギーが蓄積していると考えられる。となると、円高ショックをなんとしても回避しようとする日銀は、金融引き締めにはますます動きにくくなるという袋小路に陥る。異次元緩和はこの面からも、やめるにやめられない「エンドレス」になっている。
債券市場などの機能不全について、「物価2%達成」を金科玉条とする日銀擁護派からは「大義のためなのでそれでもいい」といった声も聞こえてくる。だが、本当にそれでいいのか。国民一人ひとりがじっくり考える必要があるように思う。異次元緩和がスタートした当初から筆者は、そうした「大義」自体が間違っているという立場である。
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