マスコミ各社が実施した世論調査を見ると、日銀が1月29日に導入したマイナス金利についての国民の評価は、以下の通り、かなり低い。
◆読売新聞(1月30~31日実施)
「日本銀行は、初めて『マイナス金利』を導入する追加の金融緩和策を決めました。あなたは、この緩和策が景気の回復につながると思いますか、思いませんか」
→ 「思う」(24%)、「思わない」(47%)、「答えない」(28%)
◆朝日新聞(2月13~14日実施)
「日本銀行は、金融機関の企業への貸し出しを増やすために、『マイナス金利政策』を初めて打ち出しました。この政策で、景気の回復が期待できると思いますか。期待できないと思いますか」
→ 「期待できる」(13%)、「期待できない」(61%)
◆共同通信(2月20~21日実施)
「日銀は、金融機関から企業への貸し出しを増やす目的でマイナス金利を導入しました。あなたは、これで景気がよくなると期待できますか」
→ 「期待できる」(10.0%)、「期待できない」(82.2%)
◆産経新聞・FNN(2月20~21日実施)
「日銀が初めて導入した『マイナス金利政策』で、景気の好循環を期待できるか」
→ 「期待できる」(17.3%)、「期待できない」(66.3%)、「その他」(16.4%)
◆日経新聞・テレビ東京(2月26~28日実施)
「日銀によるマイナス金利の導入」
→ 「評価する」(23%)、「評価しない」(53%)
国民から総スカンのマイナス金利
マイナス金利が景気回復につながるとは思わない、評価しない、期待できないとするネガティブな回答が、上記のうちマイナス金利導入の直後に行われた読売新聞調査以外のすべてで、過半数となっている。
一般の小口預金者が対象になっている普通預金や定期預金の金利がマイナスになることは、黒田東彦日銀総裁が国会で何度も述べている通り、おそらくないだろう。その一方で黒田総裁は、金融機関の各種手数料(たとえばATM時間外手数料や振込手数料)は経営判断によって決まるものであって預金金利とは「別物」だという見解を表明した。
確かにそれはその通りなのだが、かえって預金者の警戒姿勢を強めることにつながった面もあるだろう。突然のマイナス金利導入が、消費者のマインドを慎重化させる構図になっている。
黒田総裁が主導して実施された大胆な金融緩和措置は、「バズーカ」と呼ばれることがある。今回のサプライズ的なマイナス金利も「バズーカがまた撃たれた」と、しばしば形容されている。
だが、バズーカという兵器は、発射の際に、十分注意が必要である。筒の真後ろに立っていると、ロケット弾を発射した時の爆風に直撃されて、死傷するリスクが高いのである。後ろに壁があるような場合も、爆風が跳ね返ってくるので大変危険である(当コラム2月2日配信「本物の『バズーカ』はそれほど強力なのか?」ご参照)。
「バズーカ」の扱いを誤った黒田総裁
先日、あるベテランの金融ジャーナリストと話していた際に自分でもようやく気付いたのだが、黒田総裁は今回、バズーカの取り扱いを誤った形である。筒の真後ろに、システム対応などの準備ができておらず、その上に、マイナス金利が導入されると収益基盤が大きく損なわれて貸し出しを含むリスクをとる能力が低下してしまう数多くの金融機関や、虎の子である金融資産を守るために警戒的な姿勢をとりがちな一般庶民がたくさん立っていた。それにもかかわらず、何の前触れも警告もせずに突然、日銀はバズーカを撃ってしまったのだ。
日銀がその後でいくら説明を繰り返しても、筒の真後ろに立っていた経済主体が受けた心身両面にわたるダメージの修復は、決して容易なことではないだろう。
そうした中で、ECB(欧州中央銀行)が3月10日、事前の予告通り追加緩和を決定した。マイナス金利幅の0.1%拡大や、月間資産買い入れ額の200億ユーロ上積み、買い入れ対象への高格付け社債追加などが柱である。
だが、ドラギ総裁が記者会見で「一段の金利引き下げが必要になるとは思わない」と述べつつマイナス金利政策の限界を率直に説明すると、「利下げはこれで打ち止め」と市場は判断し、ECBが追加緩和をした狙いとは逆に、ユーロ圏の国債利回りが上昇。為替相場はユーロ高になった。
先進国の中央銀行による「金融緩和競争」および市場との心理戦がまだ続いていることが今回の一幕であらためて確認されたわけだが、この機会に原点に戻って考えたいのは、金融政策では達成できない(あるいは達成できない可能性が高い)目標を、中央銀行が「達成できる」と言い張りながら、「手段は無限にある」とばかりに無理な政策を行うのは、本当に肯定されるべきことなのかということである。
中央銀行には物価安定を実現する責務が課せられているのだから、たとえそれが実験や賭けに近い政策手段であっても、やれることがあるのならば最大限やるべきだという考え方がある。黒田日銀総裁は就任時から現在に至るまで、この立場をとっている。
中央銀行が「できない」と言った瞬間にその中央銀行に対する信認が失われてしまう恐れが大きいので、政策手段に限界はないということを前面に出しつつも、大きな弊害や副作用が生じないとみられる手段を選別した上で行使するという、上記よりマイルドなスタンスの中央銀行もある。ドラギ総裁が率いるECBは、この範ちゅうに属するとみられる。
だが、名目金利の「ゼロ制約」を乗り越えて金融緩和を深掘りすること、言い換えると金融政策に過度の負荷をかけることに、筆者は明確に反対の立場である(当コラム3月8日配信「『金融緩和・通貨安競争』は、やめよう!」ご参照)。
臨床試験がほとんど行われないまま、あるいは実現可能性が高い「出口」の戦略をしっかりと用意しないまま、いわば「見切り発車」的に追加緩和を積み重ねていくことは、財政拡張による次の世代へのツケ回しと似通った面がある。
金融政策は決して万能薬ではなく、さまざまな副作用が新薬には伴いがちだということを、いま一度認識する必要があるだろう。
金融緩和による景気・物価の刺激効果はもはや限界に達しており「カラ雑巾を絞っているようなものだ」と揶揄されたのは、15年ほど前だったと記憶している。それでもなお、半ばお試し的に金融緩和を無理に展開することにより、経済にさまざまな弊害・副作用・ひずみをもたらすことは、長い目で見ればその中央銀行の信認をかえって損なうことになりはしないか。
できないのであれば、「なぜできないのか」(原因が金融政策の範ちゅうの外にあるのか、政策手段の面で限界があるからなのかなど)をしっかり説明した上で、政府など他の政策主体がどのように動けば事態は改善するのかについてメッセージを発信する方が、その中央銀行とその国の人々の双方にとって、結果的にはハッピーなのではないだろうか。
「しかし、すべての責任はワシが負う」
先日読んだ田中角栄ブームを取り上げたコラムの中に、故田中角栄氏が蔵相(現在の財務相)就任時に大蔵官僚を前に行った伝説のスピーチとして、「田中角栄100の言葉」(宝島社)から、次の言葉が引用されていた。
「できることはやる。できないことはやらない。しかし、すべての責任はワシが負う。以上」
田中角栄という政治家の評価は毀誉褒貶相半ばするが、日銀を含む先進国の中央銀行の多くに必要とされるのは、こうした一種の割り切りではないか。
「できないことはやらない」とずばり言い切った上で、自らの責任において政府に対し、必要な政策(日本では特に戦略的な人口対策の展開)の早期実行を求める。日銀を含む先進国中央銀行のトップに今求められているのは、そうした胆力である。
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