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 ホンダジェットの特徴は、主翼上面にエンジン配置、空力的に大きな効果を得られる最適な位置と形状。そして、革新的エンジン配置、胴体のエンジン支持構造不要、広い客室と大容量の荷物室を実現した。米国で最初に発表した際には、米国航空業界からは常識外れの設計と揶揄された。しかし、その後の飛行データやメカニズムを明らかにすることで、批判していた航空業界も新たな発想を認めただけでなく、賞を授与するまでの評価を下した。ここでも、定説や常識に囚われない発想が具現化された。

 1月8日から日本経済新聞に、「Mr.ホンダジェットの執念」が連載されている。9日の記事を見て思わず笑ってしまった。エンジンを主翼の上に付けると言う提案をした開発責任者の藤野道格氏に対して、それを聞いたホンダの上司が「こんなバカなエンジニアは見たことがないな!」と罵倒したと言う。誰が発した言葉かは、数人の候補が浮かぶがイニシャル表記されていないので確信はない。いずれにしても、この上司は技術経営側にいたはずだから、ここでも先入観や定説に囚われて間違った判断をしたと言うことだ。技術経営の視点では、「常識から外れるような提案だが、ならば実証してみろ!」と言うような発言が適切だった。技術経営側に就く者は主観や先入観で判断すべきことではないことを大いに反省すべきであろう。

 この基礎研究所での筆者の新たな業務は、これまたタイミングが合ったように、異動してテーマ探索をしていた7カ月後のことだった。1990年9月に、米国カリフォルニア(CA)州大気資源局(CARB)が発したゼロエミッション自動車(ZEV)法規である。日米大手6社に課されたのは、98年から電気自動車(EV)をCA州に2%供給するという基本方針であった。

 日米自動車業界を震撼させたZEV法規の発効により、筆者がホンダでの電池研究機能を創設する役目を指示された。「錆と電池」と言う名言を発した当時の役員研究員である佐野彰一氏の影響は大きかった。

 1995年には、栃木研究所へ組織ごと移ることになって開発が加速された。98年の最初のEV(ホンダEV-Plus)に適合させる大型ニッケル水素電池の開発から実用化、その後はハイブリッド車(HV)用のニッケル水素電池開発、そしてリチウムイオン電池(LIB)の研究へと進化させる研究戦略を自ら描き、その進行を図っていたのだが事件が起きた。

 2002年を超えると、筆者が進める化学電池領域の研究開発は分が悪くなる。研究所の経営陣が化学電池の価値を低く評価したからである。そのひとりのK氏は筆者に向かって、「車載用のLIBは実現しない!」「化学電池よりも大容量キャパシタだから、佐藤さんも化学電池を捨てて、そちらへ移ったら?」とまで言われて愕然とした。筆者は、「物理電池と言えるキャパシタの原理を考えると、キャパシタこそ電動車(xEV)用の主電源としては実現されない」と反論した。

 答えが無いようなキャパシタプロジェクトへの合流は拒否しつつも、研究資金も人員もキャパシタ側に持っていかれた身分としては、悶々とする日々を過ごすことに。しかし、信念だけは曲げなかった。「いずれ車載用LIBは実用化に至る。キャパシタこそ実現には至らない」と。

 果たして、それから20年近くが経過した。今や、全世界でLIBの開発から実用化が活発に進められている。LIBの実現がなければ、昨今のxEVの実用化には至っていない。技術経営としての判断は、必ずや論理に基づいた判断をしなければ大きな過ちを犯すという典型的な事例である。

 2004年初頭に、韓国サムスンSDIからスカウトの話が来た。国際会議での発信や論文発表、講演などをしていた関係でサムスンがアプローチして来たのである。サムスンの考え方はホンダとは真逆で、車載用LIBの実現に向けて大きく舵を切った時点である。即断はせず、3カ月ほどかけて利害得失を入念に勘案した結果、04年4月にホンダを去る決断をして7月に退社。9月にサムスンSDIに常務として移籍、渡韓し、サムスンの城下町へ赴任した。

 2002年に燃料電池車(FCV)用途に一旦事業化の道筋を付けたかのようなホンダのキャパシタ事業であったが、その後、絶対容量の不足からFCVの商品性を低下させることが露呈し、06年にキャパシタ事業は失敗と言う判断にて断念することに追い込まれたのである(上図)。「技術は嘘をつかない」「論理が伴わない技術は成功しない」と言う教訓だ。

サムスンへの移籍と技術経営

 今でこそ、日韓の政治外交はギクシャクした関係が続いている。慰安婦問題、徴用工問題、海上自衛隊哨戒機への射撃用レーダー照射問題と、近年にないほどの悪化した関係下にあるのは事実だ。筆者がサムスンに移籍した2004年といえば、直前の韓国ドラマ「冬のソナタ」の大ヒットにより、韓流ブームが押し寄せた絶頂期であった。この効果も手伝って、政治外交も温和なムードと化していたので、現在とは好対照的だった。

 サムスンに移籍してからは、当然、文化や考え方も異なり、戸惑う部分も少なからずあったものの、儒教の縛りがない筆者にとっては自分流の仕事術がある程度可能であった。振り返れば、ホンダからサムスンの移籍が筆者の仕事術、とりわけ技術経営のあるべき姿を追求する意思が強くなったようだ。