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 2013年4月から本コラムを執筆し、今回が134回となった。日経ビジネスオンラインがクローズすることで今回が最終回となる。これまでのコラムを総括すべく、「技術経営の真髄」とは何かを述べてみたい。

ホンダが教えてくれた信念像

 1978年4月から26年4カ月、本田技研工業と本田技術研究所で勤務した。最初の10年間は鈴鹿製作所の生産技術の現場で、自動車の腐食制御技術開発に関わった。「ホンダが潰れる」とまで言われたほどの大錆問題解決のためのプロジェクトを任され対応した。そこで学んだことは、定説や常識に囚われないこと、そして自らの実験データからメカニズムを考察し、その原因を突き止めることで解決策を導くというプロセスの重要性であった。

 ともすれば材料メーカーの見解に耳を傾け、あたかも自分の論理のようにのたまう諸先輩の姿には納得できず、自らのデータで議論する必要性があると思えた。なぜなら、材料メーカーは自社の製品に関して不利な見解を述べないからだ。自身のデータから自説を立て実証することで、車体材料の大幅な転換を図った。それにより、ホンダ車が錆問題から解放されたのは1986年頃のこと。しかしその間には、事業部間の確執や上下関係の押し付けなど、下図に示すように数々の紆余曲折を経験した。欧米諸国のサービス部門や販売部門が市場での製品品質に対して合格の判断を出してくれた時の達成感はひとしおであった。

 この社内研究成果によって、会社の支援もあり、ホンダでは歴代4人目となる博士号を取得できた。大錆問題の解決に貢献したご褒美とも言うべき転換点が訪れた。1990年2月には次世代技術研究の舞台となっていた本田技術研究所・和光研究センターに異動させてもらった。当時のホンダの常務取締役であった吉野浩行氏(後に社長就任)が、「大きな成果をあげたのだから、ホンダのどこの部門に移っても良いから提案しなさい」との激励をいただいたことでの結果であった。

 ここで得た教訓は、自ら考え行動に移すということで、他人の意見に耳を傾けても自らその意見が正しいのかどうかを検証しなければならないということ、それを通じて事の本質が見えるということであった。

筆者が携わったホンダでの業務(青字)と成功・失敗事例

 1986年に設立された当時の和光研究センターは、既存事業ではない新事業に繋げる基礎研究開発部門であった。上図に示すように、そこからホンダジェットが30年の歳月をかけて事業化としての離陸に成功した。和光研究センターの最大のイノベーションと筆者は評価する。「やがては空を飛びたい」と発していた創業者・本田宗一郎の思いを実現するために、経営陣も技術陣も長年に亘る並々ならぬ努力によって実を結んだのである。