引き金となった7年前の「尻もち事故」

 「まだ墜落現場の正確な位置はわかっていないのですが、近いと思われる場所の上空には報道ヘリが何十機も旋回している状態。また自衛隊の救援機を優先させるための規制も敷かれ、おいそれと近づくことができない。そこで我々のヘリはいったん芝浦ヘリポートに帰還し、私は当時麹町にあった日テレ本社の報道局で待機することになりました」(渡辺氏)

 現場の特定は困難を極めた。航空自衛隊救難隊による『墜落機の発見』の一報は墜落から10時間以上経過した8月13日の午前4時30分だった。

 「私は航空機事故の専門家ではありません。ただ、地上での事故や災害の取材は多くこなしていました。85年の日航機墜落事故では地上でのオペレーションを取材するため事故から4日目に墜落の現場となった群馬県の上野村に向かいました」(渡辺氏)

 それまでも多くの被災現場を見てきた渡辺氏だったが、御巣鷹山の墜落現場は想像を絶するものだったという。

 「原型をとどめていない御遺体も多くありました。それだけ凄まじい事故だったということです。当時取材したご縁から、事故から1年目と5年目、10年目、そして20年目に御巣鷹山に登りました。33年目の今年も伺いたいと思います」(渡辺氏)

 今回視察した日本航空の『安全啓発センター』は御巣鷹山に残されていた事故の遺品などが展示されている。

 事故の概要を整理しておこう。

“防災の鬼”渡辺実氏
“防災の鬼”渡辺実氏

 「事故に遭ったボーイング747は操作系統が4系統に分かれる多重油圧システムによって守られていました。万一の事故が起こった場合でも、どれか1系統だけでも残っていれば操作が可能なフェールセーフを導入した安全システムです。だから『絶対に落ちないジャンボジェット』と言われていた」(渡辺氏)

 ところが4系統全ての機能が失われ、日本航空123便は操縦不能に陥った。客室の空気圧を調整する後部圧力隔壁が破損したことが原因だった。

 当該飛行機は墜落事故の7年前、1978年に大阪伊丹空港に着陸する際、機体尾部を滑走路面に接触させるいわゆる「尻もち事故」を起こしている。このとき破損した後部圧力隔壁の不適切な修理が85年の大惨事の引き金となった。

 事故調査委員会の調査によると、製造元である米ボーイングは78年の尻もち事故後に自社のエンジニアを日本まで派遣して修理を行わせた。しかしこの時、本部が指示したものとは違う修理がなされた。もし本部の指示通りに修理が行われていたら、7年後の悲劇は起こらなかったのかもしれない。エンジニアの思い違いだったのか、本部の伝達ミスか。不適切な修理が行われた理由は未だ藪の中だ。

次ページ 安全な会社に生まれ変わるために