今から33年前、群馬県多野郡上野村の山中、御巣鷹の尾根に日本航空123便が墜落した。乗客509人、乗組員15人の合計524人のうち助かったのは4人のみ。単独の航空機事故としては世界最大の惨事だ。それから20年を経て、事故の教訓を風化させてはならないという思いと、航空安全の重要性を再確認する場として2006年4月24日に設置された日本航空の安全啓発センター。「33年目を向かえるいま、そして災害・事故の教訓を後生に伝えつづける“遺構”のあり方を考えるために、どうしてもここを取材したい」との想いから“防災の鬼”渡辺実氏の視察が実現した。彼の心には何が映ったのか。
1985年8月12日。この日渡辺実氏は神奈川県藤沢市の津波対策訓練を日本テレビのヘリコプターに乗り、上空から取材していた。
83年に秋田県能代市の沖合80キロメートルで発生した日本海中部地震による津波は100人の尊い命を奪っていた。藤沢市での訓練はそうした過去の教訓を生かすためのものだった。
渡辺氏が当時を振り返る
「藤沢市津波防災計画を受託したのですが、この訓練は遊泳客や海の家などを巻き込んだ日本初の大規模なものでした」
江ノ島タワーから《津波発生!津波発生!国道上および津波避難ビルへ避難せよ》の合図が発せられ、参加者数千人が訓練のために大移動しているさなか、上空のヘリへ日本テレビ報道局から一報が入った。『日航ジャンボが墜落した模様。至急芝浦ヘリポートへ帰還せよ』。
「当初は『墜落した模様』という情報だけ、現場は北関東らしいが正確な位置については誰にもわからない状態でした。私の乗っていたヘリも急遽墜落現場の取材に回されることになりました」
『申し訳ないが藤沢市の避難訓練の取材はいったん中止。渡辺先生は芝浦ヘリポートにて待機してほしい』との指示を受け、渡辺氏を乗せたヘリコプターは東京都港区の芝浦ヘリポートに向かった。
「ヘリはいったん芝浦ヘリポートに着陸したあと、給油のためすぐに有明リポートに向かったようでした。当時、テレビ局の報道ヘリはこの芝浦のビル屋上にあるヘリポートを拠点の一つとして使っていました。現在は羽田空港の拡張により航空路管制区にかかわるということで閉鎖され、同じ港区にある東京ヘリポートなどに移っています」(渡辺氏)
墜落現場が定かでないなか、マスコミ各社が事故現場に向けてヘリを飛ばす。
渡辺氏も日本テレビのヘリコプターに乗り、北関東の山中に向けて飛び立った。
引き金となった7年前の「尻もち事故」
「まだ墜落現場の正確な位置はわかっていないのですが、近いと思われる場所の上空には報道ヘリが何十機も旋回している状態。また自衛隊の救援機を優先させるための規制も敷かれ、おいそれと近づくことができない。そこで我々のヘリはいったん芝浦ヘリポートに帰還し、私は当時麹町にあった日テレ本社の報道局で待機することになりました」(渡辺氏)
現場の特定は困難を極めた。航空自衛隊救難隊による『墜落機の発見』の一報は墜落から10時間以上経過した8月13日の午前4時30分だった。
「私は航空機事故の専門家ではありません。ただ、地上での事故や災害の取材は多くこなしていました。85年の日航機墜落事故では地上でのオペレーションを取材するため事故から4日目に墜落の現場となった群馬県の上野村に向かいました」(渡辺氏)
それまでも多くの被災現場を見てきた渡辺氏だったが、御巣鷹山の墜落現場は想像を絶するものだったという。
「原型をとどめていない御遺体も多くありました。それだけ凄まじい事故だったということです。当時取材したご縁から、事故から1年目と5年目、10年目、そして20年目に御巣鷹山に登りました。33年目の今年も伺いたいと思います」(渡辺氏)
今回視察した日本航空の『安全啓発センター』は御巣鷹山に残されていた事故の遺品などが展示されている。
事故の概要を整理しておこう。
「事故に遭ったボーイング747は操作系統が4系統に分かれる多重油圧システムによって守られていました。万一の事故が起こった場合でも、どれか1系統だけでも残っていれば操作が可能なフェールセーフを導入した安全システムです。だから『絶対に落ちないジャンボジェット』と言われていた」(渡辺氏)
ところが4系統全ての機能が失われ、日本航空123便は操縦不能に陥った。客室の空気圧を調整する後部圧力隔壁が破損したことが原因だった。
当該飛行機は墜落事故の7年前、1978年に大阪伊丹空港に着陸する際、機体尾部を滑走路面に接触させるいわゆる「尻もち事故」を起こしている。このとき破損した後部圧力隔壁の不適切な修理が85年の大惨事の引き金となった。
事故調査委員会の調査によると、製造元である米ボーイングは78年の尻もち事故後に自社のエンジニアを日本まで派遣して修理を行わせた。しかしこの時、本部が指示したものとは違う修理がなされた。もし本部の指示通りに修理が行われていたら、7年後の悲劇は起こらなかったのかもしれない。エンジニアの思い違いだったのか、本部の伝達ミスか。不適切な修理が行われた理由は未だ藪の中だ。
安全な会社に生まれ変わるために
展示室の中央にある模型。垂直尾翼の下にある上下を緑と白で塗り分けられた丸い部分が後方圧力隔壁。その後ろに破壊した圧力隔壁の実物が展示されている
直径4.5メートルのパラボラアンテナのような形をした後部圧力隔壁は垂直尾翼の真下にある。安全啓発センターには破損した後部圧力隔壁や垂直尾翼の一部なども展示されている。
渡辺氏は「墜落した機材の実物を見ると、当時の悲惨な現場がフラッシュバックする」としばし言葉を失っていた。
そんな渡辺氏は御巣鷹山の慰霊碑や安全啓発センターのことを「巨大な事故遺構」であると評価する。日本航空安全推進本部マネジャーの辻井輝氏が同センターについて解説してくれた。
「安全啓発センターは大きく『展示室』と『資料室』に分かれています。資料室には航空事故などに関する資料が開架されています。展示室の方は実際の遺品を展示しています」
入り口すぐには破損した垂直尾翼が横たわる。表面のいたるところに、現場の捜査官や事故調査官たちのメモ書きがある。さらに細かく見ると、羽の継ぎ目などところどころに土や枯れた草などが残っているのがわかる。
「日本航空は事故当初、圧力隔壁などだけを社員教育などのために残し、あとは別の場所に保管する予定でした。しかしその後、この事故を教訓とし、安全な航空会社に生まれ変わろうとの機運が高まり、またご遺族のご意向もありこうした残存部品を保存していくことになったのです」(辻井氏)
「実際にこちらの施設がオープンするきっかけになったのはどういったことだったのですか?」(渡辺氏)
合併時に多くの事故が発生していた
「日本航空(JAL)と日本エアシステム(JAS)が合併する時期(2004年前後)に大小様々な事故が発生しました」(辻井氏)
国を代表するナショナルフラッグであるはずの日本航空が、毎月のように大きな事故に繋がるかもしれない『重大インシデント』を発生させてしまう。
この事実に国民は苛立ち、マスコミによる日航バッシングも強まった。
当時の新聞記事を見ても事故の多さがわかる。
「無断離陸あわや追突 日航機緊急停止、1000m先に着陸機 千歳空港滑走路」
2005年3月1日 東京読売新聞
北海道千歳空港で、日航の飛行機が管制塔の許可なく離陸を始めた事故。1月に起きていたのだが、発表したのは2カ月以上あとだった。
「日航機尻もち着陸 乗客124人ひやり 福島空港初の旅客機トラブル」
2005年3月23日 東京読売新聞
伊丹空港を飛び立った日航機の2261便(ボーイング767-300型機)が福島空港を着陸する際、機体後部が滑走路に接触し、機体の一部と滑走路の誘導灯1個を破損した。
「日航機緊急着陸 重大インシデント、今年に入り7件目」
2005年5月9日 東京読売新聞
05年の5月までに起こった航空事故発生の恐れがあると認められる「重大インシデント」は7件。そのうち2件が日航のトラブルだったと報じる。
「航空トラブル:国内発着、日航グループが55% 際立つ発生率」
2005年8月10日 毎日新聞
1~6月までの航空機トラブルについてその55%が日航機だったと報じる。
“防災の鬼”渡辺実氏も苦笑してこう言う。
「実は私もJALとANAの両方に乗っていたのですが、JALの重大インシデントがあまりにも続くので、あの頃からJALに乗らなくなった」
「実はそうしたお客さまが相次ぎました。当時、JALへの逆風は現場にいる私達にも肌身に伝わってくるほどでした。このままではJALが危ない。強い危機感から何をしても変わろう、変わらなければいけない、という思いが社内から沸き起こってきました。そして、評論家の柳田邦男先生を座長に、失敗学の研究で知られる畑村洋太郎先生、防衛大学の名誉教授で組織論と経営学の大家でいらっしゃる鎌田伸一先生、さらに社会安全研究所技術顧問の芳賀繁先生、ヒューマンエラーの研究家小松原明哲先生をお招きして、第三者委員会が設立されました」(辻井氏)
第三者の見解は「失敗から学ぶ」ことに収斂した。
そして2006年4月24日、安全啓発センターが設立されたのだ。
後半はいよいよ実際の展示物にせまる。
■訂正履歴
本文4ページ目で、「柳田國男先生」としていましたが「柳田邦男先生」の誤りでした。お詫びして訂正します。本文は修正済みです。 [2018/7/9 13:30]
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