2011年4月に卒業、日々の生活に疑問

 田中さんは2011年4月に社会人となった。防災に目覚めるきっかけは入社したこのタイミングにあったようだ。つまり東日本大震災の直後。関西の大学ですら自粛ムードで卒業式や会社の入社式も直前まで開催するかわからず、いざ開催されても喜んでいいのかわからなかったという。

「関西には東北の状況についてあまり情報が入ってこなかったんですよ。だからどこかで他人ごとって感覚があって…。テレビでは東北のニュースや公共のCMばかりで、せっかくの卒業と入社の晴れ舞台なのになあと思っていました。あとは関西なのにお笑い番組が一気に少なくなったことを覚えています」(田中氏)

 ただ働き始めると、少しずつ日本全体のことが見えてきたのか、日々の生活に疑問を覚えるようになった。

「入社後はソーシャルゲームのプロデューサーとして仕事をしました。でも大学時代の友人たちには東北に行って支援している人たちも多くて…。一方私はゲームを作っている。そういう毎日にすごい違和感を覚えるようになってしまったんです」(田中氏)

 田中さんが行動に移すのは早く、そして大胆だった。

「入社から1年半、一念発起して退社し、福島県庁と沿岸部8市町村の広報課の方々とご一緒しながらお仕事をするようになったんです。震災後に立ち上がった公益社団法人に入って、福島県での事業責任者として。県庁・市町村広報課と一緒に県外避難者の向けの情報発信の事業をやっていました。IT企業にいたということもあって、その当時の知識や経験が役に立ちました」(田中氏)

「現地に入って炊き出しをするだけが復興支援じゃありませんからね。田中さんのような若い人がその世代の感覚を持って現地に飛び込み、情報発信や防災支援グッズのデザインなどの分野で力になるというのは大切なことだと思います」(渡辺氏)

「もともと体力があまりないので、現場で実際に体を動かすというのは実は自信がなかったというのもありますけど(笑)。福島市に1年ほど住みました」(田中氏)

「このハードルの超え方は見習いたいね。現場で力仕事以外にも役に立ちたい、そして自分で何ができるかを探して提案して実際にやってのける。そうした実現力が防災意識には大切だと思いますよ」(渡辺氏)

「こうした環境で1年ほどの活動をして、復興・防災というものの奥の深さに気づいていったんです。そして『東京に帰ったらこれを若い人たちに広める仕事をやろう』と思うようになっていきました」(田中氏)

 福島市滞在で意識が高まった田中さん。いよいよ防災ガールを立ち上げ、本格的に活動していく。そのお話は後編で。