6年経過しても先は見えていない

 「さあ~、どうぞ上がってください」と遠藤氏に招かれ、玄関から各部屋へ案内される。1階も2階も6年前のままの状態で、放置されたままだった。

遠藤宅の室内
遠藤宅の室内

「地震発生直後、職場(旧観陽亭)へ向かう途中、子どもの学校と幼稚園へ寄って子供達の無事を確認しましたが、妻とは連絡がとれませんでした。子供達を実家(富岡町)において妻を捜しました。妻は、仕事で楢葉町にいて町のコミュニティセンターに避難しており、12日未明に妻の無事を確認できました。

 12日朝、夜明けとともに避難指示がでて、とくかく川内村へ向かうよう富岡町から指示がありました。12日午前、30分ほど自宅によって現金・印鑑・通帳・毛布など車に積んで車で家族と川内村へ向かいました。

 しかし、避難先が不明確、情報が大混乱していて、西へ向かうか、郡山経由で関東へ向かうか判断を迫られました。結果、郡山市へ向かう選択をして、12日深夜に郡山市開成山野球場(指定避難所)へ避難させてもらいました。14日に伊勢崎市へ向かい15日伊勢崎市営住宅へ移動しました。このままではまずいと判断し、16日深夜に東京都多摩市にある妻の実家へ一家4人がたどり着き、一息つけました」(遠藤氏)

 まさに3月11日から16日まで、遠藤一家は“難民”状態だったことがわかる。

「遠藤さんは、いわき市で宅配弁当・観陽亭を新しい事業として起こしていますが、原発事故の賠償はどうなっているんですか」(渡辺氏)

「賠償の大きな柱は、(1)帰還困難区域内の土地・建物・家財の賠償と、(2)一人10万円の精神的賠償の2つになります。(1)の評価は震災前の評価額で算定されました。(2)の賠償は来年3月末には終了すると報道されていますが、帰還困難区域の人達がどうなるのか、まだ正式には説明を聞いていません。

 私は県外避難した多摩市で中古の住宅・土地を購入していますが、この賠償処理はまだ手をつけてません。住民票も登記も富岡町から移していません。富岡町にあって被災した事業所は賠償がありますが、宅配弁当・観陽亭は地震後にいわき市で起業したので、賠償対象外です。自己資金を投入し銀行さんの好意で融資いただき起業資金はなんとかなりました」(遠藤氏)

「やっぱりこの家に家族で戻りたいですよね」(渡辺氏)

「いえ、帰還困難区域のバリケードが設置されたとき、もうここでの人生はない、と考えています。子供達の思い出の品物はあえて持ち出していません。持って帰ればこことのつながりが残るからです。子供達にとっては、6年経過してここは故郷にはなっていませんから」(遠藤氏)

取材を終え、ショックで遠藤宅玄関先でしばらく動けなくなった“防災の鬼”
取材を終え、ショックで遠藤宅玄関先でしばらく動けなくなった“防災の鬼”

 富岡町は政府に意向を受け入れ、今年4月1日に帰還困難区域以外の避難指示を解除した。6年間何度も原発被災地の取材をしてきたが、今回遠藤さんの協力で初めて帰還困難区域へ入ることができ、遠藤宅で様々な現実と今を知ることができた。

 “防災の鬼”は、話を聞いたあと遠藤宅の玄関先からしばらく動けなかった。

 自分の家に帰ることができず、手紙も宅配便も届かない場所が、この日本のなかに存在していること。6年経過しても、その場所の将来は全くわからないまま放置されていること。

 日本で生きている日本人は、この現実から目を逸らしたり忘れたりしてはいけない。