「さぁこれから」という時に被災

「当時の観陽亭は宿泊のキャパシティが60人ほど。レストランや婚礼会場も併設していて、地元ではけっこう大きな施設でした」(遠藤氏)

 太平洋に流れ込む富岡川を見下ろす場所に建っていた観陽亭は、2011年3月11日の東日本大震災で被災した。現在建物は解体・撤去され、僅かな瓦礫を残すのみとなっている。

旧観陽亭の瓦礫の向こうに見えるのは福島第2原発
旧観陽亭の瓦礫の向こうに見えるのは福島第2原発

「震災の前年には海の見えるホールなどを新設し、お客さんも右肩上がりに増えていた。まさに『さぁこれからだ』というタイミングでの被災でした」(遠藤氏)

「場所柄、東京電力の職員もよくきたんじゃないですか」(渡辺氏)

「もう、毎日のようにマイクロバスで送り迎えするくらいご利用頂いていましたね。今となってはいい思い出です」(遠藤氏)

 しかし、渡辺氏がいつも言っているように、人は突然被災者になる。遠藤氏は震災直後、3月16日には妻の実家がある東京都多摩市に避難することができた。

 原発事故の対策拠点として使われたJビレッジも以前は設立当時の目的どおり、各サッカークラブが使用していた。そうした関係者も観陽亭に宿泊することが多かった。

「震災直後は仕事で知り合ったサッカー関連の方々からも応援のメッセージや救援物資をたくさんいただきました」(遠藤氏)

 全国から集まった救援物資を、地元で不自由な避難生活を送る被災者たちのもとへ届けるのが遠藤氏の日常業務となった。

「仮設住宅もまだ整備しきれいていない時期ですから、救援物資を届ける僕自身も、学校の体育館などの避難場所にお世話になりました。そうした場所には自衛隊の皆さんなどが炊き出しなどに来てくれるのですが、配布の列に並んでいるときに思ったんです。『なんだか自分は家畜になった気分だな』と」(遠藤氏)

「そう思っている避難者は多かったんじゃないでしょうかね」(渡辺氏)

「だと思います。私は家畜のままでいるのが嫌だったので、自分で次の目標を決めました」(遠藤氏)

 2011年の3月末にはオーナーと協議し、観陽亭でのビジネスはいったん解散することが決定した。

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