10月7日の日本時間8時過ぎに起きた「ポンドの大暴落」は、ブレクジットへの恐怖感を想起させた(AP/アフロ)
6月に世界を震撼させた英国のEU離脱(いわゆる「ブレクジット」)の決定は、市場が大混乱に陥るとの陰鬱な予想を覆し、実体経済への影響も軽微に留まっているように見える。EU離脱を支持した人々からは「残留希望組による過大な警告だった」との批判が巻き起こり、金融市場にも「ブレクジット・リスクはもはや過去の話」として切り捨てようとする動きさえあった。
だが、10月7日の日本時間8時過ぎに起きた「ポンドの大暴落」は、ブレクジットへの恐怖感がいまだに消えていないことを想起させるに十分であった。たった2分ほどの間にポンドは対ドルで1.26台から1.18台まで6%超(市場には10%超との観測もある)の暴落を記録、2015年8月に米国株市場で起きた「フラッシュ・クラッシュ(瞬間的な暴落)」の再来とも言われる惨状を呈したのである。
ポンドのボラティリティの高さは今に始まった話ではない。歴史を振り返ればポンドは何度も危機に見舞われ、1992年には有名なジョージ・ソロス氏との「通貨戦争」の舞台ともなった。今年6月のブレクジット決定の際にも、対ドルで11%の暴落を記録している。
ただ、選挙前には「離脱決定となれば15%程度下落する」と予想されており、当時の1.45ドルから1.23ドル近辺への低下はほぼ「予見済み」であった、とも言えよう。その後は英国経済に大きな動揺が見られないことから、急落した後ポンドはしばらく1.3台を挟んだ範囲での平穏な動きに終始していた。そこに突然、ポンド売りの嵐が起きたのである。
「失望売り」の上を行く「絶望売り」が起きた?
その背景には、前日に英国保守党大会でメイ首相がかなり思い切った「ハード・ブレクジット(強硬な離脱)路線」を打ち出したことが挙げられる。これにフランスのオランド大統領が「英国に対し断固とした姿勢を取る」と過激な反応を示したことでポンド売りが誘発され、アルゴリズム取引が流動性の乏しい市場の中で発動されて市場がパニックに陥った、と見られている。
もっとも、アルゴリズム取引にすべての非を擦り付けてはなるまい。市場には「ブレクジットは間違い」「再度国民投票をすべき」「欧州諸国は妥協すべき」といった未練がましい気持ちが残っており、その可能性がメイ首相の発言によって一蹴されたことで「失望売り」の上を行く「絶望売り」が起きた、という解釈も成り立つだろう。米国株の「フラッシュ・クラッシュ」とは違い、今回の騒動はポンドが落ちるべくして落ち、然るべきレベルに達しただけの話だろう。
暴落の真相はいまだ藪の中ではあるが、ポンドドルやポンド円などのレートを提示する金融機関が一時的に市場から消えたことは事実だ。昨年1月のスイスフラン・ショックに次ぐこの騒動は「外国為替市場は最も流動性が高い」という伝統的な安心感に、強烈な疑義を突き付けることになった。そして今回のポンド暴落は、為替相場だけに限定されない潜在的なリスクを暗示しているようにも思われる。日本にとっても他人事ではないかもしれない。
「英国は腹を決めた」とEUは強硬に
いま英国では、EU統一市場へのアクセス維持を求める「ソフト・ブレクジット(柔軟な離脱)」派の立場はさほど強くない。それは、EU残留の必要性を主張した人々の経済・市場の予想が大きく外れているからだ。そのせいか、同国の産業界・金融界の利害を代表するハモンド財務相の存在感は、前政権下のオズボーン氏と比べて段違いに薄い。そしてEU残留を支持したカーニー英中銀総裁も、離脱派の政治家らの強烈な圧力によって辞任寸前にまで追い込まれている。
英国内の政治力学はいまや、産業界の味方とは言えないフォックス国際貿易相、デービスEU離脱担当相、ジョンソン外相の三閣僚によって操られている。企業経営者らは必ずしも強硬な離脱派ではないジョンソン外相の柔軟(あるいは狡猾?)な戦術に期待したいところだが、同氏の言動には一貫性がなく信頼性に乏しい。
そうした政治的運営の下、前述の通りメイ首相は保守党大会において「リスボン条約に基づくEU離脱通告を来年3月末までに行う」と明言し、移民流入の制限と司法権威の奪回を重要な二本柱に置いた。EU統一市場へのアクセス維持は二次的な位置付けとされた印象が強く、経済的影響を懸念して妥協や残留への道を探ってきた人々の夢は打ち砕かれた。ポンド売りが殺到したのも当然だ。
同首相は、EU統一市場や関税同盟から脱退するとは明言せず「ハード・ブレクジット」という言葉は適切でないと語りながらも、国民投票のやり直し要請や議会決議なしに離脱通告を行うことへの訴訟準備などの動きを「英国民を侮辱する行為だ」と斬り捨てるなど、「ブレクジットはブレクジットだ」というその強硬な姿勢を明確にしつつある。
同首相の基本姿勢は「完全に独立したソブリン」という言葉に明確に示されているように思われる。そのためには、多少の経済的損失はやむを得ない、といった姿勢さえ窺われる。これをもってEU側が「英国が腹を決めた」と見做し、強硬な準備態勢を敷くのは明らかだ。
それは、EU内に「英国の身勝手を許せば域内の分裂を加速する」との警戒感が強まっているからだ。ドイツのAfD(ドイツのための選択肢)やフランスのFN(国民戦線)など極右勢力に代表される「反EU勢力」の台頭は、時間を追うごとにその正統性への自信を喪失し始めた超国家組織としてのEUの弱点を蝕んでいくだろう。
欧州には、分裂気味で効率性を失い人気低下中のEUよりも、自己主張を始めた国民国家で構成される欧州の方が、移民や難民、安全保障などの問題にうまく対応出来る、といった見方すら浮上しつつある。年末に行われる憲法改正を巡るイタリアの国民投票やオーストリアのやり直し大統領選挙、そして来年3月のオランダの総選挙などは、その重要なリトマス試験紙になる。ブラッセルも気が気ではない。
EU離脱の「慰謝料」は200億ユーロ
もっとも、英国でブレクジットを主張した人々にも過信や誤診があったことは否めない。6月の国民投票前に、離脱派の一部は国民に対し「EUから離脱すればその拠出金が節約されて医療サービスに向けられる」と主張していた。だがEU離脱はそれほど簡単な手続きではない。例えば、英国は既に支出をコミットした金額に対して支払い義務を負う、というのがEUの主張である。
これまで英国のEU離脱に伴う「慰謝料」はあまり注目を集めてこなかったが、英フィナンシャル・タイムズ紙は離脱によって発生し得るその支払い金額を約200億ユーロと見積もり、EU側や学界などからの裏付けも取った上で、メイ首相がその支払いを拒むことは難しいだろう、との結論を下している。
問題になるのは、長期プロジェクトのコミットメントや議員年金などの未払い分だが、そのうち最大の課題は「RAL(Reste a Liquider)」と呼ばれる未払い金である。英政府は離脱すれば払う必要がないとの姿勢を採っているようだが、法的には支払い義務が生じているとの見方が強い、という。
こうした支払い義務が一般国民の間で話題になり、議会承認のないEU離脱通告の有効性について法的な疑義が生じれば、世論が「二度目の国民投票」へ傾くことも有り得よう。英エコノミスト誌の最新調査に拠れば、先の投票を後悔している人は離脱組で6%、残留組で1%となっており、6月の結果が52%対48%の僅差であったことを考えれば再投票では結論が覆る、と期待する声もあるようだ。
経済理論を無視する強硬的離脱派
また、フォックス国際貿易相らは「EU統一市場へのアクセス制限は他国との交易機会拡大で十分カバー出来る」と述べ、アジアや中東、中南米などとの交易拡大を目指すべき、NAFTAに参加すべき、といった声すら上がっているが、それらは明らかに世界経済の実態を無視した発言だろう。
同誌は、離脱派はティンバーゲンの「貿易重力モデル」を無視している、と指摘している。1969年に第1回ノーベル経済学賞を受賞したその貿易理論は、貿易量はその二国の経済規模に比例し、その距離に反比例するというシンプルなモデルであるが、英国とEUとの貿易関係を端的に表す強力な裏付けにもなっている。日本経済にとって、中国やインドを含めたアジア地域が如何に重要かを示唆する理論的フレームワークでもあり、この議論は我々自身にも重要な意味を持つ。
その批判に対して強硬的離脱派は、貿易拡大はGDP拡大の結果であって原因ではないと反論、新興国経済の台頭はこのモデルの有効性を大きく後退させていると主張し、さらに今日のようにサービス産業が主流になった時代に距離という変数は無関係だ、と反論している。
だが第一の点については既に実証研究でその有効性は立証されており、第二の点においては貿易を支える購買力は一人当たりGDPを尺度に置くべきだ、と同誌は述べ、また第三点のサービスに関しても、同時間帯や言語の共通性そして財との関連性などを勘案すれば重力モデルはまだ有効だと指摘し「ブレクジット派の主張には全く正当性がない」と断じている。
また、EUが2009年から協議を続けているカナダとの包括的通商交渉が、ベルギー南部のワロン地域だけの反対であわや決裂しそうになったことや、英国がWTOに加盟し直す手続きの煩雑さなどは、離脱派の描く経済成長への青写真が全く非現実的であることを示しているようにも見える。
輸入コスト急上昇で「労働者の生活水準」に逆風も
もっとも、離脱派への牽制球の威力としてはこうした経済的な議論よりも相場の大変動の方がはるかに力強い。31年ぶりの水準にまで下落したポンドは、いまや投機筋の絶好の売り対象となっており、先安観に怯える実需筋からの売りも加わって、一段安は不可避の情勢にある。その衝撃を受けて、過去最低水準を更新していた英国債の利回りも一気に上昇へと転じている。
市場には、ポンド安で輸出増・輸入減となれば、高水準に達している経常赤字の縮小にも資する、と見る向きもある。ポンド安は同国の主要株価指数であるFTSE100を過去最高水準にまで押し上げており、日本市場と同様に英国市場が通貨安歓迎ムードにあることは否めない。8月に英中銀の金融政策委員に就任したマイケル・ソーンダース氏は、ポンド相場が新たな均衡点を探る動きの過程にある限り何の問題もない、との見方を示している。
だがポンド下落は既に輸入コストの急上昇をもたらしており、9月の消費者物価指数は前年同月比1.0%上昇と2014年11月以来の高い伸び率となっている。この傾向が強まれば、メイ首相が気遣う「労働者の生活水準」に対する厳しい逆風になる可能性は小さくないだろう。カーニー英中銀総裁は先月「もはやポンド下落を無視し続ける訳にはいかない」と述べて、追加緩和姿勢を修正する姿勢を見せている。
また、英国債利回りの上昇も経常赤字国の英国には厳しいシグナルだ。英中銀の追加金融緩和方針を受けて過去最低水準にまで低下していた10年債利回りは、ポンド暴落を契機に先月0.5%台から一気に1.2%台までの急上昇を示した。その背景にあった海外投資家による英国債の投げ売りは、構造的な経常赤字の下で対外資本に大きく依存する同国に対する追加的リスク・プレミアムの要求だと見て良い。
今後、不透明感が増すに従って景気が下向くと懸念される中での金利上昇は、国内経済にも大きな脅威である。財政政策出動に前向きなメイ首相にとって、ファイナンス・コストの上昇は有難い話ではない。
こうしたポンド下落と英国債利回り上昇が示しているのは、ブレクジット決定を契機に機関投資家の英国社会に対する見方が変わった、という点だ。これまで自由で開放的な市場経済を「売り物」にしてきた英国が、移民規制や司法独立といった閉鎖性に政治的な優先度を置いたのは、従来の英国の路線が大きく修正されようとしていることを意味している。「自由」の象徴であったポンドが売り対象になったのは当然のことかもしれない。
英国市場からは、財政収支と経常収支の双子の赤字を抱えながら政治的に彷徨する国の資産を欲しがる投資家など何処にも居ない、といった恨み節も聞こえる。同国の経常赤字は3年連続で過去最大を更新中であり、昨年第4四半期にはGDP比7%超という赤字を記録、財政収支はキャメロン前政権の緊縮財政でやや改善基調にあったが、メイ首相はその方針転換の姿勢を見せている。ポンドに一段のリスク・プレミアムを要求する市場の声は、決して不合理ではない。
「死に体の市場」だからこその怖さ
そして、為替市場と国債市場がもはや流動性の高い市場ではなくなったことも、重要なインプリケーションを持つ。特に後者に関しては、英中銀は日銀同様に積極的な国債買い入れを実施しており、2018年までに市中残高の3分の1を保有する計算となっている。それは明らかに市場流動性の低下をもたらしており、今回の利回り急騰の土壌を形成したとも考えられる。
日本では、日銀が「イールドカーブ・コントロール」を通じて長期金利水準を公的に制御する「金利操作」を開始し、10年債をゼロ近辺に固定することで金利急騰のリスクは低下している、との見方が大勢だ。市中発行の90%を日銀が購入しており、流動性が低下して長期金利は事実上固定相場となっているからだ。先月には10年債の業者間の出会いがゼロになる、といった事態にまで悪化している。
だが、そうした「死に体の市場」であるからこそ、国債に何が起きるかわからないという怖さを英国債市場は示している。日本市場で10年債の利回りが逆に猛スピードで低下したり、20年債や30年債の利回りが急騰したりして、為替市場や株式市場における思わぬ大変動を生むようなシナリオは、もはやテール・リスクの段階ではない。
今回のポンドと英国債を巡る大変動は、英国が来年3月までに「ハード・ブレクジット」路線を見直す可能性を示唆するとともに、流動性を奪い去られた市場に囲まれる中で長期的な成長戦略を見失うと何が起きるかという警告を、日本に事前に与えてくれたのではないか、と思わずにはいられない。
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