全8147文字

避難所から要望が出ない理由

野口:それはいつも思います。避難所に行っても、こういうのを用意してほしいというリクエストが出てこない。熊本のときは577人と共同生活しても、何も要望がない。日本人特有の恥の文化があるのかな。こちらは援助で入っているので、ぱーんと言ってくれた方がぱっと用意できるのに。

國井:私が察するに2つあって、1つは、既に必要なものが満たされているのでリクエストがない。もう1つは、足りないものがあっても、中で物流管理などに関わっている人たちが手いっぱいで見えていない。

野口:余裕がないと。

國井:自分たちがやることで精いっぱい。実はもうひとつ。200人の避難者がいるところに50個の援助物資を持っていったら、ほかの避難所に持っていってください、と言われるケース。

野口:それは僕もびっくりしました。持っていっても、「うちも困っているけどあっちも困っているから、あっちへ持っていって」とみんな言う。これは海外じゃ考えにくい。

國井:日本的な助け合いの精神と、もう1つは中で不平等が起きるのを避けたがる。

野口:公平が理想だけど、熊本で難しいと思ったのは、基本的に人数分ないとダメということ。水でも300人いるところなら300本なければいけないと。

 うちのテント張りは益城町の避難所のグランドを借りていて、トラックがいろいろなものを運んでくる。だから、グランドの1カ所に市場をつくって、みんな好きなものを取っていくようにしたんですね。そしたら、市の方が「ちゃんと人数分ありますか」と聞くから、「うちは早い者勝ちです」と答えたら、「それはあり得ません」と。でも、みんながみんな同じものを必要としていない。今回の朝倉市でも段ボールベッドを30個持って行ったら、150人全員分ないから置かないと。30個あるので、体の不自由な方や高齢者など必要な人をこちらで探すと言ってもダメという。

欠けているのは「公正」の概念

國井:途上国では基本的に物がないところが多いから、少しでも援助が届いたら誰に配るか優先順位を決める、プライオリティ・セッティングが一番大切。それはイクオリティEqualityじゃなくてエクイティEquity、つまり平等ではなく公正です。

 どういうことかというと、塀越しに野球の試合を見たい兄弟3人がいて、背の高いお兄ちゃんは何もしなくても見える、2番目は背伸びをしてやっと見えるか見えないか、3番目はまったく見えない。そのとき同じ高さの台をあげるのが平等で、台を使えばお兄ちゃんはさらに見えて、2番目はやっと見えるようになって、3番目はそれでも見えない。公正というのは、一番小さい子が見えるように最も大きな台、大きなお兄ちゃんにあげた台を含めて2つの台をあげるの。2番目にも見えるように1つ台をあげるけど、おっきなお兄ちゃんにはあげない。平等に分配しなくても、最も必要な人から順に届ける。これが公正。

 だから今、健さんが言ったように、早いうちに優先順位のためのリストをつくっておく。寝たきりの高齢者、妊婦さん、子ども、乳児などのリストをつくり、この人たちには優先的に避難所のいい場所、トイレに近い場所などを割り当てて、必要な物資を配る。ラピッド・アセスメントとかスクリーニングとかいいますが、できるだけ早めにニーズの高い人々をリストアップして、必要な支援、物資を推算しますね。

野口:僕の感じる限り、日本の避難所ではその概念がない。

國井:僕は東日本大震災で多くの教訓を得て、その後の緊急支援はかなり改善すると思ってた。熊本地震の後、特に2018年は西日本の大豪雨や北海道の地震を含めて、本当に災難続きでしたね。

野口:まだですね。これだけ繰り返してきた教訓を次にどうつなげるか、社会として苦手なのかも。

國井:健さんがテント村をやって、いろいろな教訓を発信してくれたでしょ。それで僕は自分の経験も含めて教訓を伝えたいと思って、熊本地震から得た教訓を記事にした。そしたら、熊本で支援しているボランティアの人から「そんなこと書かないでくれ。現場でやっている人はみな頑張ってる、必死だ」と言われました。現場で頑張っている人の気持ちは分かるけど、僕は彼らを批判しているんじゃなくて、なぜ東日本大震災で学んだことが十分に熊本で活かされないのか。本気で考えないと、また将来同じことを繰り返してしまう。頑張っている、努力しているという精神論じゃなくて、冷静に見つめて分析して改善しなくてはいけない実践論で語らなければならないことがある。健さんはいろいろ自分で実践してみて、具体的な改善の実例を現場に残して、実践的な提言を世の中に示している。なかなか誰にでもできることじゃない。