PKOで示した日本の「強さ」

紀谷:メインは道路造りと、PKO部隊の宿営地や基地の整備、安全対策です。塀や待避所を造ったりというのもありました。

國井:住民の反応は?

紀谷:喜ばれました。2013年10月の最初の衝突以降、PKOの目的が現地の一般住民が被害を受けないように、安全に暮らせるようにすることとされたので、相手国政府がやる道路整備に技術協力したり支援したりというのは正面からできない役回りでした。ただ、PKOは人道物資を輸送したり、安全パトロールをしたりするので、そういう活動のために必要な基幹道路を整備するのは自衛隊施設部隊の任務の一環でした。そのような道路は一般の人たちも使えるので、よくやってくれた、ありがたいと言ってもらえました。

 あともう1つは、一般の日本人からするとなかなか重要性は理解してもらえないかもしれませんが、PKOの基地の塀を厚く高くするとか、PKOの人たちが逃げ込めるような退避壕を造ることもしています。

 これから数年で終わるのか、5年、10年、20年かかるのか分からないけれども、PKOがなくなるとともにそれは使われなくなってしまう話なんですよね。そういうものに虎の子の自衛隊が一生懸命立派なものを造ってどこまで意味があるかというのはやっぱり疑問に思う人もいると思うんですね。

 ただ、逆にそれがあるからこそPKO部隊が安心して活動ができる。実際、被害者が出ることもあるので。ほかの部隊がきっちり安全に活動できるようにするための下支えという業務もやっている。これは相手国の国民からは目に見えないけれども、実は本当に大事な業務なんです。

 特に衝突直後はあまり外に出られないので、そういうときは一生懸命、基地の防護をやっていたんですけれども、これが実はすごく大事で、国連の職員からはすごく評価されています。

 国連PKOのいいところは、日本の自衛隊の能力と規律、意欲を世界に示せることです。南スーダンのPKOには50数カ国が参加していて、彼らが日々見ているわけですよ。南スーダンの国民だけじゃなくて、世界中から来ている軍の関係者とか、あと文民も含めた支援関係者とかも。

 戦うわけじゃない。まさに国連が認めた平和のための実任務を自衛隊がやる。そこで優れた規律とか高い能力を世界に示す。これは2年間ずっと見ていて、なかなかすごいことだなと感じました。

アフリカと日本の化学反応を

國井:そして今、紀谷さんはTICAD担当大使でもありますね。まずTICADについて説明していただけますか。

紀谷:日本語でいうと「アフリカ開発会議」です。アフリカの開発について、日本主導で多くの関係者とともに取り組みを進めようというものです。アフリカの開発問題についてのダボス会議、あるいはオリンピックみたいに、アフリカ開発に関わるすべての関係者が集まって、アフリカ人を中心に据えて、みんなで方向性をそろえて取り組んでいく場でもあります。

 1993年から5年ごとに日本でやっていたんですが、2013年の横浜「TICAD V」のときに、まさにアフリカ開発だからアフリカでもやりたいということで、日本とアフリカで交互に開催することになりました。ただこれまで通り5年に1回だと日本では10年に1回になってモメンタムが薄れてしまいますので、3年に1回に。そうすると日本で開催するのは6年ごとになるのでいいだろうということで。初めてアフリカで開催したのが、2016年のナイロビのTICAD VI。次は2019年に横浜で開かれます。

國井:私も以前、横浜で開かれたTICAD Ⅳと、先日ナイロビで開催されたTICAD Ⅵに参加しましたけど、ナイロビでの会議では特にアフリカがこの開発会議に対するオーナーシップ、つまりこれは自分たちの会議なんだ、自分たちで開発を進めるんだ、という自主性が感じられるようになりました。アフリカには経済成長率が二桁。16~17%という国も出てきて、また中国の進出も顕著で、ここ5年、10年でアフリカは大きく変わってきましたね。2019年のTICADはどんな感じになりそうですか。

紀谷:ビジネスが日本とアフリカ双方の一番の関心事です。それに、TICADは1993年に始まってからもう25年経っているので、そろそろバージョンアップが大事かなと。自分としては、多くのアフリカ首脳が参加する、アフリカ開発のダボス会議、オリンピックに相当する国際会議と位置づけてはどうかと感じています。アフリカ開発の主要課題について、政治的なモメンタムを生み出し、世界のベストプラクティスを共有してスケールアップし、幅広い関係者のネットワーキングを通じてイノベーションを生み出すことができれば、TICADの独自の付加価値をプロデュースできます。ただ、これから皆さんの意見に耳を傾けて……。

國井:ここでも「聞く」を大事に(笑)。

紀谷:はい(笑)。TICADの誕生は、冷戦の終結と日本の主導がきっかけでした。そもそもは東西冷戦の中で、東側諸国に対抗する目的でアフリカを支援していた西側先進国が、ようやくこれで対抗して支援する必要はなくなったというふうに思った。ところがそこで日本が、いやそうではない、これから世界はまさにアフリカを支援しなきゃいけない、開発問題に取り組まなきゃいけないと主張した。

 当時、日本はだいぶ貿易黒字も出していたし、それをどうやって還元するかという、日本の国際責任の果たし方が問われていた時代でした。そこでアフリカ支援という形で課題を特定して貢献をしようということだったのです。

 当初はODAが中心でしたが、TICADを重ねる中で、援助からビジネスへと形が変わってきた。貿易・投資が大事だというふうに気運が変わってきたので、どうやってその気運を先に進めていくか。

 開発をめぐる日本の取り組みについては、TICADを通じて議論が深まってきたように思います。初めは、援助とは国益のためなのか、世界益のためなのかという二項対立的な議論があり、やがて、国益と世界益の共通するところにお金と努力を注入すべしという議論になり、今はより具体的な内容が問われるようになっている。

 例えば、インフラならばその質をどうするか。急場しのぎの粗雑なものではなく、質の高いものをつくれば確かに目先のお金はかかるけれど、ライフサイクルコストで考えて得になるように。

 保健分野では、日本が築き上げてきたヘルスシステム、国民皆保険制度ですね。そういう仕組みを提供する中で、これから経済の基盤をつくっていく人々が健康に生活し仕事ができるようにするというのはインパクトがあるでしょう。

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