
以前、「『男性の終焉、女性の台頭』の時代に向けて」とのエッセイを書いたが、昔ながらの「男性と女性の二元論」で語るのは、今の時代、ナンセンスでもある。
「LGBT」をはじめ、多様な性のバックグラウンドを持つ人々が、この世に多く存在し、社会的に重要な役割を果たしているからである。
無知は罪なりー古代ギリシャの哲学者ソクラテスの言葉だが、性についての無知も罪につながり、世間を騒がす。
2015年4月、一橋大学法科大学院の学生が同性に愛を告白したことを他の学生に暴露(アウティング)されて、それをきっかけに投身自殺したとされる事件は記憶に新しい。
LGBTについて、私もかつては全くの無知であり、状況によってはこの加害者と同様の罪を犯していた可能性もある。
私は大学生時代にヨーロッパを旅して、初めてLGBTの人々に出会った。おそらく、それ以前にも日本で出会っていたのだろうが、今のようにカミングアウトできる時代ではなかった。知らずに過ごしてきたのだと思う。
それ以降、世界を旅して、また仕事上でも、様々なLGBTの人々に会い、交流を深めていった。
はじめは、正直言って驚き、困惑することもあった。知り合いになるに留まらず、時に熱く愛を語られ、強く迫られることもあったからだ。
「口説かれる女性の気持ちって、こうなのかな」と戸惑いながら感じつつも、最後の一線は「自分にはそういう『趣味』がないから」と相手に伝えて断った。
そんな体験を、当時の浅はかな自分は、日本に帰国してから飲み会の席で友人たちにオモシロおかしく話していた。まさに、一橋大学の加害者と同じような過ちをしていたのである。
さらに、「自分にはそういう趣味がないから」と断ったことは、LGBTの人々を全く理解しておらず、「性的指向」を「性的嗜好」と勘違いしていたのだ。
2016年に杉並区議が「そもそも地方自治体が現段階で、性的指向、すなわち個人的趣味の分野にまで多くの時間と予算を費やすことは、本当に必要なのでしょうか」と議会質問をして炎上したのとまた同じ過ちである。
そんな無知な自分も、グローバルヘルス分野の研究や支援を進めるうちに、日本国内外を問わずLGBTの知人・友人が増え、彼らが抱える悩み・苦しみを少しずつ理解できるようになった。
さらに、国際機関で働きはじめてからは、LGBTを含めたマイノリティに対する差別・偏見、人権問題が世界ではいかに深刻で、感染症のパンデミックを含む地球規模課題を解決する上でもいかに大きな障壁であるか、その解決がいかに複雑で困難かを痛感するようになった。
現実を知れば知るほど、私のような「無知」とそのような問題に対する「無視」がいかにこの世に蔓延し、それがいかに問題解決を妨げているか、認識するようになったのである。
氷山の一角にすぎない一橋大学事件
LGBTの知人の多くは、人生のある時期から自らの「性」について悩みはじめ、誰にも打ち明けられず、または打ち明けた後にも様々な問題を抱え、苦しんでいる。
ある女性は、数人の男性と付き合ったが全く満足感を得られず、いつしか本当に好きなのは女性であることをはっきり自覚した。ある時、好きになった女性に勇気を出してカミングアウトしたところ、返事もなく、交友関係を避けられるようになった。さらに、その噂が他の友人にも広まることになる。それ以降、女性を好きになっても恐くて打ち明けることができない、男性には全く興味をもてない、自分は異常なのでは、と悩み続ける日々を過ごしていた。
またある知人は、生物学的には男性だが、女性になりたいとの願望が強かった。初めは隠れて女装していたが、どうしても人前で堂々と女性として振舞いたい、美しく着飾りたいと思ってそれを実行した。ありのままの自分でいたいと、職場でもそれを実行したところ、上司から咎められ、最終的に会社を辞めさせられた。
ある男性は高校生の時に同じクラスの男の子を好きになった。胸にしまっておくのが苦痛で本人に打ち明けたところ、周りに言いふらされた。噂は広まり、学校でいじめを受け、最終的に登校拒否、そして自殺を図った。
LGBTのこのような悩みを全く理解できない、という人は、2007年にNHK紅白歌合戦に出場した中村中(あたる)さんの「友達の詩」を聞いて欲しい。
中村さん自身が男性でありながら同性を好きになり、好きになった人と「手をつなぐ」、たったそれだけのこともできない悩み、苦しみを歌にしている。LGBTの人々が抱える悩みを、頭や理屈でなく、心や感性で感じることのできる素敵な歌である。
一橋大学の事件は氷山の一角にすぎない。
ある国の調査ではLGBTの若者の9割が学校でいじめや差別を受け、日本の調査ではゲイ・バイセクシュアル男性の65%が自殺を考えたことがあり、15%が自殺未遂をしているという結果がある。
LGBTの人々はそれを肌で感じている。自殺したり行方不明になったりする仲間が身近にも多いからである。
偏見・差別だけでなく、「ホモフォビア(Homophobia)」「トランスフォビア(Transphobia)」と呼ばれる、LGBTへの明らかな「嫌悪」を持つ人々がおり、「ヘイトクライム(Hate crime)」と呼ばれる、LGBTへの暴行・殺害が絶えない。これらは世界中で実際に発生していることだが、特にブラジルでは1980~2006年の間に2500人以上のLGBTが殺害され、その数は2017年には2016年に比べ30%増え、380人に達したという。LGBTという理由だけで殺されてしまうのである。
個人的な偏見・差別だけでなく、国が法律でゲイやレズビアンなど同性のセックスを罰する国もある。
これは、もともと「肉欲に基づく性行為」を罰する刑法(反ソドミー法)の条項として、ヴィクトリア朝時代の英国が植民地にばらまいたものである。その後、解釈の変化で、同性間の性行為だけを取り締まるものとなった。異性間の性行為は妊娠・出産を目的としうるのに対して、同性間の性行為はそれを目的としえないことが理由のようである。
いずれにせよ、これが英国の植民地以外にも広がり、今でも影響を及ぼしている。英国を含め、近年はその法律や制度を撤廃・破棄する国が増えてきているが、未だに施行している国が世界に70か国以上あり、中には未だに死刑を宣告する国もある。
このような偏見・差別をなくすには、まず世界の人々が人間の「性」の多様性を認め、世界に存在する大多数とは異なった「性」をもつ人々のことを理解することからはじめなければならない。
「性」の3つの切り口を知る
まずは「性」には様々な切り口や側面があることを知ることだ。
「性」には大きく3つの切り口があるといわれる。
性器や染色体などによる「身体的特徴で分けられる性(biological sex)」つまり、「身体の性」、自分自身はどんな性だと思うかという「性自認(gender identity)」つまり「心の性」、好きになるとしたらまたは実際に好きになったのはどんな性かという「性的指向(sexual orientation)」つまり「好きになる性」である。
「身体の性」として、この世には男性・女性だけでなく、身体的特徴から男性とも女性とも言い難い、または両方の特徴を有する「インターセックス」の人々がいる。性染色体の異型、胎児の発達時期の母体のホルモン異常など様々な原因があり、その特徴を生殖器、生殖腺、染色体、ホルモンの分泌状態などで分類すると、60以上ものパターンがあるといわれている。
男性なのに精巣が小さく、思春期から女性のように乳房が発達してきたので検査してみたら、性染色体がXX(女性)でも、XY(男性)でもない、XXYだった。女性として結婚もしたが妊娠しないので検査してみると性染色体がXのみだった。私が臨床医として働いていた頃、そんな人々を症例報告として学び、また実際に診察もした。
前者をクラインフェルター症候群、後者をターナー症候群と我々は医学的に診断をするのだが、これらの診断は当の本人にとって、それまで自分が普通の男性または女性だと思って生きてきたのに、そうではなかった、普通ではなかった、異常なんだ、と大きな衝撃を与えるものだった。そして、「自分は男性なの?、女性なの?、両性?無性?……なんなんだ!」と、自分の「性」のアイデンティティに苦しむ人が多い。
2つめの切り口は「性自認」(心の性)である。
多くの人々は「身体の性」、見かけが男性や女性であれば、自分の性の自認・心の性もその性と一致するのだが、なかには「身体の性」と性の自認、心の性が異なる人がいて、身体的・生物学的には女性だが、性に関する自認としては男性(Female-to-Male:FtMエフティーエム、と呼ぶ)、逆に身体的・生物学的には男性だが、自己意識としては女性(Male-to-Female:MtFエムティーエフと呼ぶ)といったパターンがある。これを医学的には「性同一性障害(gender identity disorder)」もしくは「性別違和(gender dysphoria)」と呼び、WHOが定めた国際的な診断基準、米国精神医学会や日本精神神経学会などの診断・治療ガイドラインにも載っている。
「精神医学」の分野で診断・治療がなされることが多いが、もちろん、これは「精神病」ではない。原因がある程度特定できる「病気・疾患(disease)」に対して、この「障害(disorder)」という用語は、身体や心の問題や症状を有するが原因を明確に特定できないものに使われる。
また、性同一性障害については、「身体の性」と「性の自認」とがうまく合わない、マッチしない、という意味でもdisorderという用語が使われている。
しかし、「性同一性障害」という用語について、身体や精神の機能不全(disability)を示す「障害」という言葉を用いるため、何らかの機能不全があるようなイメージを与えるのではとの懸念を示す人もいる。また、これまで議論されてきたように、「障害」という用語自体に「障(さわ)り害がある」というマイナスイメージがあり、障害者に対する呼称も含めて、今後も検討すべきという意見もある。
なお、2013年に刊行された米国精神医学会の「DSM5(診断と統計マニュアル第5版)」では、「性同一性障害」という分類は廃止され、「性別違和」に統合されている。
この「身体の性」と「心の性」が一致しない人の中にも、その程度には個人差があるといわれている。
たとえば、幼少の頃から身体の性とは全く異なった性の自己認識を持ち、それが揺るぎなく、一生続く人もいれば、性の自己意識が身体の性と異なると感じ始めるのが遅い人、その不一致を感じる時期と感じない時期と一生の中で揺らぎのある人もいる。
それに対して、身体の性を心の性に近づけたいと思って、ホルモン療法や性別適合手術などの医学的治療を強く求める人もいれば、それを望まない、またはどうしようか迷う人もいる。
いろんなパターンがあるのだ。
3つめの性の切り口は「性的指向」、平たく言うと「好きになる性」にかかわるものだ。
前述したが、これは「性的嗜好(sexual preference)」とは違う。嗜好は後天的に得られた好み、趣味だが、「性的指向(sexual orientation)」は生まれながらにしてもっているもの、生来的に決まっている性質であり、個人が意思して変えることができるものではないとされる。
ちなみに、もうひとつ「志向」という日本語があるが、これも人間が意識して持つものというニュアンスがあり、性的少数者の「性的指向」とは異なるものである。
ただし、この「性的指向」にも様々なパターンがあるといわれる。好きになる人は絶対に異性でないとだめという人から、どちらかというと異性がいい、どちらかというと同性がいい、絶対に同性がいい、どちらでもいい、という人まで。先天性とは言っても、自分の好きな性を認識し始めるのが遅い人、途中からまたわからなくなる人もいるという。
以上の3つの性の切り口、「身体の性」「心の性」「好きになる性」のそれぞれに、いくつかのパターンがあると述べた。大きく、「女性」「男性」「両方またはどちらともいえない」の3つのパターンに分けると、3x3x3=27で、人の「性」には27通りのパターンがあるとも言える。しかし、実際にはそれぞれ3つのパターンだけでなく、それぞれがグラデーションのように分布しているといわれ、「性」の多様性は極めて大きいともいわれているのである。
このような性の多様性に関して、その表現にはポリティカル・コレクトネス(political correctness;PC)、すなわち政治的・社会的な公正さ・中立性が求められることがある。
特にアメリカでは敏感だ。誰かが差別や偏見、また排除と感じる言葉や用語があれば、それらを指さして矯正しようとの力が働く。
LGBTについては19世紀半ば頃からホモセクシャル(Homosexual)という言葉が使われてきたが、その用語に差別的な意味が染みついてきたため、L(Lesbianレズビアン)、G(Gayゲイ)、B(Bisexualバイセクシャル)、T(Transgenderトランスジェンダー、またはTranssexualトランスセクシャル)の総称としての「LGBT」が使用されはじめた。
しかし、これだけでは前述した「多様な性」が表現できていない、LGBTには属さないで排除されたと感じる人も出てきた。
LGBTにも属さない性
これに対して作られた用語が「LGBTQQIA」である。
LGBTの後に続くQQIAは次の通り。
まずはじめのQはQueer(クイア)で、「変な」「奇妙な」の意味である。以前、「あいつ奇妙だな」とLGBTの人々に軽蔑的に使われていた言葉が、次第に当事者たち自身が「別に自分たちQueerでいいんじゃない、かえって面白いんじゃない」と自ら積極的に用いるようになった。自分達をLGBTでなく敢えてQueerと呼ぶ人々には、「同性愛とか異性愛とか性行動で我々を分類して欲しくない。我々は普通とは違っていていい。個性的で素晴らしいんだ」との主張があるようである。
次のQはQuestioning(クエスチョニング)。自分の性自認や性的指向が多数派のストレート、いわゆる多数派とは違うと感じているが、自らをLGBTのいずれにも分類できないでいる状態である。LGBTだった人が、再び自分の性自認や性的指向に疑問を持つ場合もある。
IはIntersex(インターセックス)。これについては上述した通り。
そして最後のAはAlly(アライ)、同盟、盟友である。自らは多数派のストレート、異性愛者だが、LGBTの人々、その人権に理解を示し、その差別・偏見をなくすために一緒に戦ってくれる、時に代弁してくれる人々である。私自身も敢えて分類するならば、このアライに属するだろう。
しかし、これらの分類でも足りず、LGBTQQIAAPPO2Sという用語まで生み出された。
LGBTQQIAに続くAPPO2Sは以下の通り。
AはAsexual(エイセクシャル)、異性にも同性にも性的欲求や恋愛感情を感じない人のこと。
PはPansexual(パンセクシャル)、性別はどうでもよく、それを超越して人をその個性を愛する人のこと。「全性愛」「全人愛」と訳す人もいる。アガペー、いわゆるキリスト教における無限の愛、無償の愛とどう違うのか、相手からのリターンを全く期待しない、また相手を全く傷つけない愛なのか、そうでないのか、議論は十分にはし尽くされていないものではある。私自身もそのような人に出会ったことはない。
さらなるPはPolyamorous(ポリアモラス)、またはPolyamory(ポリアモリー)。ポリ(=多くの)+アモラス(=愛情に溢れた)で、複数の人を愛することのできる人のこと。「多性愛」と訳す人もいる。
多数の人を愛する人なら周りにたくさんいるとの声も聞こえるが、これは浮気や不倫とは違う。ポリアモリーのカップルはそれぞれに複数の「愛する人」がいても、その関係性を隠さず、むしろ大事な人だからこそ、包み隠さず全てを話して、オープンに誠実に愛し合っている人々のことだ。愛し合うカップルが互いを縛り付けず、それぞれが持つパートナーも紹介し合って、数人で同居したり、食事や旅行をしたりするケースもある。
そんなのあり得ないと思うだろうが、現実は小説よりも奇なり。世界にも日本にもポリアモリーは存在し、私の知人にもいる。アメリカには推定50万人以上のポリアモリーがいるといわれるが、様々な国の調査で「一夫一妻制でなくともよい」「一夫一妻制は不自然」「愛する人は複数でもよい」と考える回答者は2-3割もいるとの結果もあり、潜在的にポリアモリー指向の人は少なくないようである。
OはOmnisexual(オムニセクシュアル)。Pan-(ギリシャ語由来)もOmni―(ラテン語由来)も「全て」を意味する接頭辞で、和訳するとPansexualと同じく「全性愛」「全人愛」であるが、強いていえば、Omnisexualは性別による役割やニーズの違いなどを認めたり意識したりするのに比べ、Pansexualはそれらを認めない、または意識しないようである。これも十分に議論しつくされているわけではなく、私自身、実際にオムニセクシュアルとパンセクシャルの人々に会ったこともなければ、本当の違いを知っているわけではない。
最後の2SはTwo Spirit(トゥー・スピリット)の略で、北アメリカ先住民の間で古来より認められてきた第三の性である。自分の体に「女性の魂と男性の魂(Spirit)が2つ同時にある」と感じている人、身体は男性または女性でありながら、異性の性質・特徴を持つ人のことである。そのような人々は先住民社会でマイノリティとして差別されなかっただけでなく、むしろ尊敬され、信仰療法、伝説や歌の口承、予言、名付け親、結婚の仲介など、さまざまな社会的役割を担っていたようである。
LGBTの用語や概念はもともと西欧由来であり、この2Sのように、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの伝統社会では、それぞれの地域に特有の社会的な位置づけやアイデンティティをもつ人々もいる。
たとえば、インドなどの南アジア地域に広く存在する「ヒジュラー」と呼ばれる人々は、伝統社会ではカーストの中に位置づけられており、一方で差別や偏見の対象となりつつも、他方で聖者として社会的に尊敬や信仰の対象となってきた。
私も以前、インドに住んでいた頃、女装した「ヒジュラー」によく出会ったが、彼らはヒンドゥー教寺院で宗教儀礼に従事し、一般家庭で子どもが生まれた時に誕生の祝福をして、社会の中で相応の役割を果たしていたのを覚えている。また、インド社会には「ヒジュラー」以外にも、カーストに分類されない性的少数者の様々なアイデンティティが存在していた。
フィリピンでは、トランスジェンダー女性(MtF)や、いわゆる「男らしさ」にはまらない男性の一部を含めて、「バクラ」(Bakla)というカテゴリーがあり、地方の小中学校の生徒の名簿の性別が「男、女、バクラ」の3つに分類されているところもある。
逆にタイでは、「女らしさ」にはまらない女性やトランスジェンダー男性(FtM)などの一部を含む「トムボイ」というカテゴリーがある。
以上のように、「性」は多様で、LGBTの4文字だけではその多様性を表現できないことは理解できる。かといって、LGBTQQIA……と長い用語を連ねるのは現実的ではなく、今後さらに新しいアイデンティティで用語がどんどん長くなる可能性すらあり、実際にこれらの長い用語は日常的に使われていない。
現在、やはり一般的に用いられているのは、限界を認識しつつも「LGBT」であり、LGBTの人以外を強調する場合は“+”を加えて「LGBT+」、より正確性を期する場合はインターセックスとQuestioningを加えて「LGBTIQ」を使うこともある。
また、法律や制度などを作るためには、LGBTといった少数派に分類される側を列挙するだけでは包括的でないので、国際的には、これらの分類のおおもとにある概念を列挙した方が適切という立場から、Sexual Orientation(性的指向)、Gender Identity(性自認)の頭文字をとった「SOGI」(「ソージ」と発音)、また、それをどう表現するかを示すExpression (性表現)を加えて「SOGIE」(「ソージー」と発音)、さらに、インターセックスに対応する形で、性の身体的特徴に関する概念である「Sex Characters (性的特徴)」の頭文字を加えて「SOGIESC」(「ソジエスク」と発音)という用語が使われることもある。
LGBTはどれほど「少ない」か
ちなみに、私の機関ではSOGIの用語を用いている。
ところで、LGBTは性的少数派とも呼ばれるが、どれほど「少ない」のだろうか、との疑問がある。
例えば、「好きになる指向」としての同性愛だけをとっても、古来よりギリシャ、ローマ、エジプト、インド、マヤなどで広く認知され、中国の明清時代には男性間同性愛は多く巷に拡がり、女性間の性行為も文学作品に描写されている。
日本でも、男性同士の性行為、いわゆる「男色」は古来より記録があり、近世までは当たり前のように存在し、場所や状況によっては公然と行われていたという。
また、生まれながらにして男性か女性か判断がつきにくいインターセックスは、調査によると世界中で平均1500人に1人くらいの割合でみられ、思春期や結婚後などに染色体診断などで判明する例を含めると500人に1人は存在するとも考えられている。
様々な国でLGBTに関する調査がなされているが、その人口割合は2-10%という結果が多いようで、推定でアメリカには1100万人、南アフリカには490万人のLGBTが住んでいるともいわれている。決して「少数」とは呼べない数字だ。
日本のLGBTの推計は2015年の電通ダイバーシティ・ラボの調査が有名だが、その結果は「身体の性」「心の性」「好きになる性」の少なくともひとつが多数派(ストレート)とは異なる人々が7.6%、13人に1人の割合で、単純計算すれば、日本に推定900万人以上のLGBTに属する人々がいるという推計を示した。
この人口割合は、左利きの人やAB型の人の割合とほぼ同じで、日本の6大苗字と言われる佐藤・鈴木・高橋・田中・伊藤・渡辺さんを合わせた数より多いという事実は、結構多くの人々を驚かせるのではないだろうか。LGBTを差別するというのは、これらの人々を差別するのと同じ、またそれ以上だと考えると、家族や親戚、親友で多くの人々の顔が思い浮かぶ。LGBTは、日本では決して少数とはいえないようだ。
そもそも電通がこの調査を行ったのは、多様な個人へ目線を拡大し、少数者に理解・支持することで、企業が新たな社会価値を創出していけるか、事業成長を促進していけるかというマーケティングが背景にあったようだが、この調査によってLGBT層の商品・サービス市場規模は5.94兆円とかなりの規模で、決して「生産性がない」人口層ではないことも明らかになっていた。
LGBTのムーブメントは、彼らが同性婚や反差別などを訴える社会運動の場としてのプライド・パレード(マーチ、フェスティバルなど)と呼ばれるイベントの開催とその参加人数を見る限りでは、世界でも日本でも広がっているように見える。
例えば、2006年に開催された「サンパウロ・ゲイ・プライドパレード」には推計250万人が参加し、当時世界最大のプライド・パレードとしてギネス世界記録に認定され、2009年には更に多い320万人が参加している。
日本でも、北海道から沖縄まで様々な街でプライド・パレードが開催されてきたが、特に東京で開催されるレインボープライドのパレード&フェスタには約5000人がパレードに参加し、会場への来場者は10万人を超えている。
LGBTの人々が求めているもの
しかし、このような運動、ムーブメントに対して、
「LGBTを理解して差別しなければいいんだろう。でもそれ以上の共感や支援など必要ない」
「LGBTに特別にテコ入れする必要はない!」
と考える人々も少なくないことは、炎上した政治家の発言、マスコミの報道などを見れば明らかである。
これに対して、多くのLGBTの人々が求めているものは、「過剰な要求」ではなく「最低限の要求」そして「基本的な権利」であることを知る必要がある。
例えば、同性同士の結婚。
好きで一緒に住んでいれば、別に結婚する必要はないだろうという声もある。
しかし、もしパートナーが危篤状態等になった場合、親族として認める証拠がなければ、病室に入ることもできないのが現状である。パートナーの手術同意書にサインができない、病名の告知を聞けない、保険金の受け取り、子どもの養育、財産の相続などができないなど、他にも様々な障壁がある。これを乗り越えるには、結婚という形、または「法律で家族として認められる証明」を得なければならない。
2000年以降、欧米を中心に、法律で同性結婚が認められるようになってきたが、日本では未だ法律上は認められていない。
だからこそ、「同性パートナーシップ条例」を2015年4月に全国で初めて施行し、同年「パートナーシップ証明書」を発行した東京都渋谷区のインパクトは大きいといわれている。
渋谷区長の長谷部さんとは、先日「TEDxShibuya」でもご一緒させて頂いたが、博報堂から政治家に転身しただけあって、「ちがいをちからに変える街。」などキャッチーなスローガンの将来ビジョンを作り、社会貢献のための強いメッセージを伝え、それを実践している。
これによって渋谷区では、証明書を取得したカップルは家族向け区営住宅への申し込みができ、事業者の裁量によっては夫婦と同等に扱われることで、会社での家族手当の支給など配偶者や家族向けの福利厚生制度を受けることも可能になったという。
このパートナーシップ証明書の第一号をとったのが、最近、京都から来年の参議院選挙に立憲民主党から立候補予定の増原裕子さん。そして、最近、彼女のパートナーとなったのが経済評論家の勝間和代さんである。
私もお二人を存じ上げているが、とても素敵なカップルだ。LGBTを含めて、多様な人々がもつ「最低限の要求」が認められる社会づくりに大いに貢献して欲しいと思っている。

国籍を問わず、グローバルに活躍しているLGBTの方々が少なくない。私がこれまで働いてきた組織にも、能力と人格の双方が備わった素晴らしいLGBTの上司・同僚・部下がいた。
特に、私がこれまで仕えた上司の中でも、知識・経験、コミュニケーション能力、政治的手腕など、あらゆる面で「あっぱれ!」と唸らせたのが、グローバルファンドの元上司、事務局長であったマーク・ダイブルである。
彼は医師であり、優秀な研究者であったが、その能力を買われて40歳前半でアメリカの国務次官補級にあたる米国大統領エイズ救済緊急計画(PEPFAR)のトップとなった。その就任式には同性のパートナーを同席させ、堂々とゲイであることを公表している。

彼の凄さは、その専門性の深さ、知識の広さ、頭の回転の速さ、機転の利かせ方のみならず、世界の名だたる大統領・首相級から市民団体や当事者組織に至るまで、あらゆる人々を魅了してしまうその人間力にもある。
誰に対してもいつも飾らず、誠実で、謙虚、それでいながら知性とユーモアに溢れ、その人望は誰からも厚かった。それでいながら、政治的巧妙さ、リスクをかぎ分ける能力、野心的なビジョンに向かって人々を走らせる能力など、リーダーとしての資質もピカイチだった。私は彼から直接多くを学ばせてもらった。
グローバルファンドを含む多くの国際機関・国連機関では、国籍、人種、宗教、性などによるあらゆる差別・偏見をなくす努力をしており、どんなマイノリティであっても、求められる才能や経験があればそれを十分に発揮できる環境がある。
むしろマイノリティだからこそ、偏見・差別された人々が置かれた状況を十分に理解し、それを解決する方法が見えることもある。またマイノリティを計画や実施に参画させ、そのネットワークを駆使して幅広い活動につなげることも可能である。
たとえば、私が統括する局には「コミュニティ・人権・ジェンダー部(Community, Rights and Gender Department)」という部署があり、様々な国・地域で差別・偏見を受けている人々、社会の辺縁に追いやられている人々への差別・偏見を軽減し、感染症を予防し、その死亡を減らすための効果的なサービスを届ける活動を推進している。
そのため、この部署では、過去に実際に差別・偏見を受け、本人だけでなく同胞のために、その問題解決のため戦ってきたLGBTもいる。中には世界のLGBTのネットワークを率いて、エイズやその他の問題と戦ってきた戦士、ヒロイン的立場のリーダーもいる。彼らは同胞や愛する人の死も経験しているため、問題の深刻さ、解決の困難さを知っているが、決して諦めない、強いパッションも持ち合わせている。
彼らが中心になって、世界の様々なパートナーと協力して作ったのが「SOGIに関するグローバルファンド戦略(The Global Fund Strategy in Relation to Sexual Orientation and Gender Identities)」である。
これは、性的マイノリティに対する偏見・差別、人権侵害によって必須サービスが行きわたらず、HIVなどの感染・死亡が拡大している現状を、グローバルファンドが多くのパートナーと協働していかに戦うかの戦略が記されている。
そこには、19のアクションとして、いかにより効果的な対策プログラムを計画・実施していくか、そのために性的マイノリティやその組織をいかにプログラムの計画・実施に参画させていくか、参画する市民社会の実施能力が不足する場合、その向上にむけていかに支援するか、などに関する方向性を示している。これに関する具体的な行動計画、タイムフレーム、指標などは別に設定している。
ここで注意したいのは、特に開発途上国における「エイズ予防・啓発」といった文脈においては、レズビアン、ゲイといった「アイデンティティ」以上に、「感染リスク」の高い男性同士の性行為の有無に着目して、「男性とセックスをする男性」(MSM:Men who have sex with men)という概念を用いていることである。
また、同じレズビアンでも、トランスジェンダーでも、その職業や行動などによってエイズや結核などの感染リスクは異なる。
したがって、LGBTの概念のみに縛られるのでなく、データやエビデンスに基づいて、性的少数者の中でも感染リスクの高い人々、また性的少数者でなくとも、社会の辺縁に追いやられ、差別や偏見によってサービスを受けられない人々を「キーポピュレーション(Key Population)」と呼び、その感染や死亡を軽減するプログラムを支援している。
「差別・偏見をなくそう」「人権を守ろう」というスローガンだけでは社会は変わらない。
続く見えない敵との戦い
社会変革には、徹底した現状分析と目的・目標の設定、そこに行きつくまでの道筋とそのための戦略・戦術・行動計画が必要だ。現状分析のためにどのようなデータや情報を集めるか、分析するか、それを基にどのようなアプローチを選択するか、効果的な戦略・戦術・行動計画を作るに際してどのような好事例・教訓があるか、いかなる技術支援が必要か、対策プログラム実施のためにいかなる人材・情報・技術・物資が必要で、そのためにどれほどの予算が必要か、など具体的な問いかけと答えを準備しなければならない。
たとえばグローバルファンドでは、HIVなどの感染の脅威にさらされながら、また既に感染してしまった後に、サービスを受けられないLGBT、またキーポピュレーションの数が全く把握されていない国が多いため、そのデータや情報を積極的に収集・分析する、LGBTに対する差別的な法律・制度の撤廃・改定のための介入を行う、LGBTが必要とする感染症予防・治療サービスを支援する市民団体を技術的・資金的に支援する、東欧・アフリカ・アジア・ラテンアメリカなどの地域ごとに感染予防のためのLGBTのネットワークづくりや連携・協力体制の強化を支援する、政府とLGBTの市民組織との対話を促進し、グローバルファンドの援助から自立した後も政府が市民団体を通じてLGBTへの支援が継続するよう働きかける、など様々な支援を行っている。
これらを通じて、過去15年間で多くの変化があった。
これまで完全にLGBTに対して差別・迫害、または無視していた政府が、その支援プログラムに協力するようになった。LGBT自体が対策プログラムの計画・実施に参加し、一般市民からの理解や認知も向上した。これらによって、過去にはサービスが行き渡らなかったLGBTの間で爆発的に流行していたHIVの感染率が近年、多くの国で急減してきた。
しかしながら、多くの国でセクシュアル・マイノリティーに対する差別・偏見は未だに止まない。サービスが行き届かず、LGBTの間で新たな感染が拡大している国もある。
偏見・差別は我々の心の奥底に宿っている。無知と無視という見えないベールに包まれて。
この見えない敵との戦いは、これからも続く。
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