騒動が他の乗客を巻き込むまでに発展したことに若い男性は気がとがめたようだ。「降りましょう」と言って、初老の男性を車外に促した。
ほんの1~2分の出来事だったかもしれない。しかし、記者にはずいぶんと長い時間がたったように感じた。
「ようやく出発だ」──と思った矢先、サイレンのような音が鳴り響いた。駅員が幾人も駆けつけてきた。
お察しの通り──。初老の男性がホームの柱に設置されている非常停止ボタンを押したのだった。
無関係の人を巻き込む論理
一連の経緯を見ていた記者の頭に浮かんだのは、“被害者”の心が生み出す力の大きさとその恐ろしさだ。
たかが足を踏まれただけのことだ。駅のホームで起こる日常茶飯事のことである。それでも、初老の男性にとっては我慢ならないことだった。ほかにむしゃくしゃすることがあり、足を踏まれたことは泣き面に蜂だったのかもしれない。踏まれた足にけがを負っていた可能性もある。
いずれにせよ、“被害者”が感じる被害の程度と怒りを、それ以外の人が同じように感じることはできない。
「やってねぇよ」と応じていた青年が、初老の男性の足を踏んだ犯人かどうかは分からない。しかし、被害者の男性にとって青年は“犯人”だった。「こいつのせいだ」という確信は、それが正しいかどうかにかかわらず強い力を持つ。
“被害者”である初老の男性は、「青年に謝らせる」という目的のため、「他の乗客に迷惑をかける」という手段を選んだ。たかが足を踏まれただけのことで、地下鉄を止め、何百という無関係の乗客(本当の数は分からないが、この車両に乗っていた人だけでも50人はいただろう)に迷惑をかけると脅したのだ。
これは、いわば「テロリストの論理」である。
真のテロは、政治的目的を達成するために、対立する相手や第三者を殺傷することを言う。初老の男性の行為は、もちろん「殺傷」には当たらない。だが、自らの目的を達成するために、無関係の人々をも巻き込み、危害を加える。もしくは、そう脅す。その心の働きは、テロリストのそれと相似形を成しているように思える。
“被害者”が抱く不満と怒りは、初老の男性のような普通の人にもテロリストの論理を抱かせ、行動に走らせる。これはなんとも恐いことではないだろうか。
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