例えば、8月に警察庁が開催した検討委員会では自動車工業会が自動運転の制度的課題について指摘。自動運転車と通常の車両が混合して道路を走っている場合「速度を守っている自動運転車が追突される恐れがある」などとして、速度規制の見直しを示唆した。

 これに事故の被害者支援に携わるメンバーらが反発して議論は紛糾した。しかし、この議事録は警察庁の公開資料には見あたらない。

 記者は自動運転の促進に反対なわけでも、ましてや2000人をひき殺してでも自動運転社会を実現せよと言っているわけでもない。問題視しているのは、国が自動運転の社会的ジレンマを明示していないことだ。社会的受容性などを課題として取り上げている資料はあるものの、上記のような生々しい具体的問題や議論を示していない。

 完全自動運転が完全に社会に普及すれば、車車間通信により交通流が整理され、4000人は限りなく0に近づくという理想が描ける。しかし、そこに至るまでには、ジレンマに向き合わなければいけない。

 向き合うのは国ではなく国民だ。ポピュリズムを唱えるわけではなく、自動車という極めて国民の生活に密着した問題だからこそ、1人1人にその問題を考える動機と権利があるのではないだろうか。