「官僚からファッションエディター、そして弁護士へ」――。

 こんな異色のキャリアをたどってきたのが、都内の法律事務所に勤める海老澤美幸氏だ。「一見、大きな転身に見えるが、どれもファッションに関わりたいという点では同じ。関わり方を増やしただけ」(海老澤氏)。

ファッションエディターを経て弁護士になった海老澤美幸氏

 日本でもすっかり転職が珍しくなくなり、多様な働き方、生き方が広がっている。今年1月には厚生労働省が、副業・兼業の促進に関するガイドラインを作成。副業を認める会社もあり、「就職した会社に定年まで勤めるような直線的なキャリアはもう終わり」という空気が広がりつつある。

 だが一方で、「転職は、伝統的な大企業では不利」「副業は本業の妨げになる」といった声も根強い。実際のところ、どうなのか。海老澤氏のキャリアは、転職や副業など多様な働き方を考えるうえでのヒントになるのではないか。そう考え取材に向かった。

ファッションへの思いから1年半で官僚を辞める

 海老澤氏は、1998年に慶応義塾大学法学部卒業後、旧自治省(現総務省)に入省した。

 「高校時代からファッションに目覚め、大学生のときには、アパレル店で働いていた。でも、家系には公務員が多く、私自身も『自立した女性になりたい』という意識が強かったため、国家公務員になろうと思った。自治省を選んだのは、父親の仕事の都合で幼少期に青森県に住んでいたこともあり、地方自治に関心があったから」

 自治省1年目に、岐阜県庁へ出向する。岐阜県は元々繊維産業が盛んな地域。繊維の街としての歴史を学ぶ一方で、街の商店街がシャッター通りになっているのを目の当たりにする。その中で、ファッションに対する思いが膨らんだという。「やっぱりファッションが好きという思いを捨てきれなかった」(海老澤氏)。

 1年半で自治省を辞め、宝島社に転職した。女性ファッション誌の『SPRiNG(スプリング)』で編集者として働き始める。父親も祖父も公務員という家系の中で、雑誌編集者への転身は周囲をハラハラさせたようだ。

 「両親には、自治省を辞めることも転職することも相談しなかった。電話で事後報告しただけ。両親は心配だったようで、宝島社で働き始めた後も1年くらい電話やファックスで連絡をしてきたが、私はそれをすべて無視。今思うと相当心配かけていた」

 念願のファッション業界に身を置き、仕事に没頭する日々を送っていたが、またある思いが浮かぶ。「自分の意志で服を選びたい」――。

 日本のファッション誌では通常、スタイリストが服を選び、編集者は誌面のレイアウトなどを担当する。だが、編集者だった海老澤氏はそれだけでは物足りないと感じるようになった。

 そんなとき、イギリスでは「ファッションエディターは、スタイリストも編集者も兼ねた職業」だと知る。そこで渡英。知人の紹介により、現地のファッションエディターのアシスタントとして1年間働いた。帰国後は、ファッションエディターとして独立し、『GINZA(ギンザ)』や『エル・ジャポン』などの有名雑誌で活躍した。企画提案から、ページ構成、カメラマンやメーキャップアーティストなどの手配、記事執筆まで担当。「仕事を依頼されなければ終わり」の厳しい世界だが、海老澤氏はその業界で10年近く活躍した。