「病気で死が迫っている人がいます。新しい治療を受ければ寿命を1年延ばせます。この治療の値段が1000万円である場合、この費用を公的医療保険で支払うべきだと思いますか」。厚生労働省がこんな国民調査を検討しているが、専門家会議では質問項目への反対意見が多く、実現への道のりは遠い。
「ある人が病気にかかっており、死が迫っています。しかし、新たに開発された治療を受ければ、完全に健康な状態で1年間だけ寿命を延ばせます。この治療法の値段が500万円である場合、あなたはこの費用を公的医療保険で支払うべきだと思いますか。1000万円だったら、どうですか」
全国から無作為に選んだ国民3000人以上を対象に、こんなアンケートを行うという案が厚生労働省で浮上している。何のためかというと、医薬品や医療機器の「費用対効果」を評価するためだ。
(イラスト=alashi/Getty Images)
“超高額”の医薬品として注目を集めたのは、2014年9月に発売された「オプジーボ」。全く新しいタイプの薬であること、当初申請された治療対象が「悪性黒色腫」という患者数の少ない疾患だったことなどから、年間3000万円を超える高い薬価がついた。
超高額薬剤が国を滅ぼす――。そんなセンセーショナルなキャッチコピーがテレビや全国紙で報道され、高額薬剤が問題視されるようになったのを受けて、国は薬価の算定ルールの大幅な見直しに着手した。厚労省は急きょ「特例拡大再算定」という新たな仕組みをつくり、その対象となったオプジーボは2017年2月に薬価が当初の半分に引き下げられている。
また、それとは別に、薬の価格が効果に見合ったものかどうかを分析して価格に反映させる「費用対効果に基づく評価」の仕組みを導入することが決まっている。
費用対効果の良し悪しの基準を国民調査で決める
費用対効果評価のプロセスは、ざっくり次の5段階に分けられる。
(1)保険収載されている医薬品・医療機器の中から、基準に照らして対象品目を選定する。
(2)対象品目の製造販売企業が決められた方法に基づいて費用対効果を分析し、データを提出する。
(3)第三者(公的な専門体制)が中立的な立場から再分析を行う。
(4)国の専門部会が(2)と(3)の分析結果の妥当性を科学的・倫理的・社会的影響などの観点から総合的に評価する。
(5)総合評価の結果に基づいて価格調整する。
2012年5月に議論がスタートし、16年4月からようやく試行が始まった。現在は、既に保険収載されている医薬品7品目と医療機器6品目について、(2)のメーカーによるデータ分析が進められている。
だが、肝心の(4)の総合評価の基準が、まだ決まっていない。
治療効果を数値化する際には、「QALY(クオリー)」という単位を用いる。健康な余命を1年延ばせるだけの効果が1QALYだ。そして、2つの治療法にかかる費用の差をQALYの差で割ると、「増分費用効果比(ICER)」が算出される。ICERの値が小さいほど「費用対効果は良い」、ICERの値が大きいほど「費用対効果は悪い」と判断される。
では、ICERの基準値をどう設定するのか?ここでようやく、冒頭の国民調査が登場する。ICERの値が大きいか小さいかを判断する基準値の1つとして、国民調査の結果から算出した「支払い意思額」が使われる予定だ。支払い意思額のほかに、国民1人当たりGDPや諸外国の実態も参考にする。
7月12日に開かれた専門部会で、厚労省は調査票の案を初めて提示した。それが冒頭の内容だ。ちょっと想像してみてほしい。「ある人が病気にかかっており、死が迫っている」という前提で、完全に健康な状態で1年間だけ寿命を延ばせる新しい治療法が開発された。治療費は公的医療保険から支払われる。治療費がXX円である場合、支払うべきかどうか、「はい」か「いいえ」のどちらかで答えよ――。
具体的に提示する金額はまだ決まっていないが、異なる金額を2回提示して2回答えてもらうことで、集団としての「受諾確率」を算出するという。「私だったらXX円まで払うべきだと思う」という個人の最大支払額を推計できるものではない、と厚労省事務局は説明する。
「死が迫った患者を1年延命」質問項目に反対意見続出
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この調査の質問項目に違和感を抱く読者は少なくないだろう。実際、専門部会でも、医師や保険者を代表する委員から否定的な意見が相次いだ。
「死が迫っているという前提条件の下では、完全に健康になるならいくらでも支払うと考えるのが一般的ではないか」
「1年間だけ延命できるというのは、1年たったら亡くなることを想定するのか」
「回答者の年齢や所得、自分や家族が今、病気にかかっているかどうかなど、かなりのバイアスがかかる。それなのに3000人規模の調査で、国民の総意としていいのか」
「現実的には、負担額は1割か3割。高額療養費制度もある。公的医療保険でいくらまで支払うべきか尋ねられても、それが自己負担額や保険料にどれくらい影響するかイメージできず、自分事として考えにくいのでは」
傍聴している立場でも、この国民調査の実現がいかに困難なことかを想像して気が遠くなってしまった。
医療保険制度への理解が不十分な中で、このような調査を行うことは時期尚早だとする意見にも一理ある。しかし、費用対効果が良いか悪いかの基準値を設定するために、何らかの形で国民調査は行わなければならない。これは決定事項だ。
厚労省は専門部会で挙がった意見を基に、調査票をブラッシュアップしていく考えだ。今後、複数回にわたって専門部会で議論が続くだろう。ただ、調査を実現させるためには、「時期尚早」とされ続けてきた国民の議論を今こそ活性化させることが不可欠だと、記者は思う。
2014年度の国民医療費は41兆円に上る。薬剤費の一部は、入院料に包括化して算定されているため、このうち実際にかかった薬剤費がいくらであるかは明らかになっていない。ただ、総薬剤費は医療費の22~28%、金額にして10兆円規模になると複数の研究で試算されている。
もっとも、安易に薬価を下げることは、製薬会社の開発意欲をそいでしまう。がんや難病といった患者数が限られる疾患では、一定規模の患者数を集めて有効性や安全性を科学的に検証する「臨床試験」の実施に膨大な費用がかかる。しかもオプジーボをはじめとする「バイオ医薬品」は、培養細胞などを使って製造するため、化学合成に比べて製造コストも高くつく。薬剤費の抑制を製薬会社だけに押し付けていても解決しない。
国民医療費の内訳を見ると、後期高齢者医療給付分が13兆円(32.8%)を占める。「高齢者は高額薬剤を使うな」とまでは言わない。しかし、支払い意思額の国民調査が、世代間での適切な配分比や医療保険制度の抜本的な見直しについて、国民一人ひとりが真剣に考え、声を挙げるきっかけになってほしいと願っている。
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