発見に至るまでのユニークな回り道

 門氏は長崎市出身。思い返すと、両親とのコミュニケーション手段から出発した絵が自分の「作品」へと変化したのは、中学生の頃だったという。1950~60年代にアメリカで活躍した「ビート・ジェネレーション」に憧れ、絵だけでなく詩や音楽や写真にものめり込んでいた。

 ジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグを代表とする「ビート・ジェネレーション」の代名詞といえば、リズムと抑揚に満ちた詩の朗読だ。インタビューに応じる門氏の口調は淡々としていたが、言葉のテンポや強弱の置き方のメリハリにはたしかに、どこか詩のような印象があった。

門秀彦氏

 「絵のモチーフが浮かんだときは、印象を忘れないように一筆書きのようなラフを描いていました。メモとして、やわらかい感じの人はこうなんだ、がちっとした人はこうなんだ、という印象だけおさえて素早く描いていました」

 そのうち、幼なじみが門氏の絵のファンになった。ただし彼がより評価したのは、完成した画用紙の絵ではなくラフのほうだった。『これは俺かと思った』「こっちはあいつだと思ったよ」と想像を広げる幼馴染の姿を見てラフの可能性に気づいた門氏は、むしろラフそのものを作品へと高めていく道を選んだ。

 コンテストではたびたび入賞したが、学校では先生に絵を褒められることは少なかった。自分は絵が上手いという自覚もそれほどなかったという。

 そんな彼に初めて美術の道を意識させたのは、中学校の新任美術教師だった。彼女は門氏の絵を評価し、美術系高校への推薦入学を提案した。

 「そういう道があるんだ、とそこで初めて意識した」
 自然と描いていた絵が、自分の未来に突然つながる。そんな心躍る瞬間のイメージが記者の脳裏にも浮かんだ。

 しかし、その進路は寸前で閉ざされてしまう。健康診断で色覚特性が見つかったことで、当時の規定により推薦を得られなくなったのだ。

 やむを得ず普通高校に進学した門氏だったが、推薦の件で食った肩透かしの後味は残った。

 「一回頑張ろうと思ったら、はしごを外されるという経験をしたので、美術部には入りませんでした。美術は経済的に余裕のある人がやるものだ、そんなにちんたらいくわけにはいかないんだよ、と思い、卒業後は普通に就職するつもりでいました」

 しかし、彼の才能に惹かれる人物がまた現れる。美術の授業を担当する外部講師だった。講師は門氏のために画材を用意し、それを好きに使って絵を描くように勧めてくれた。「そこで夏休みに3日間くらい学校に行って絵を描いたら、コンテストで最優秀賞かなにかを取ったんです。そうしたら先生が、卒業後は知り合いのデザイン事務所に行けと言って推薦してくれました」
 しかし、それもまたもやぬか喜びに終わる。

 「いち早く就職が決まったと思ってほっとしていたんですが、話がそこから進まない。先生に聞くと、即戦力が欲しいからお前を雇う余裕はないらしいと言われました。でもそこでデザイン事務所という存在を知ったことで、そこに行けばなんとかなるかもしれないと思ったんです」

 高校卒業後、門氏はデザインの仕事を夢見ながらも、横浜のパン工場、福岡のお好み焼き屋、名古屋での建設作業員などを経て、長崎のアパレル店員という仕事にたどり着く。目的のない彷徨ではなく、すべてデザインの仕事に近づくための選択だった。パン工場はデザイン事務所の多い東京に近づくため、お好み焼き屋はデザイン性の高い店舗づくりに関わる機会を得るため、建設作業員は専門学校に通う資金を貯めるため、そしてアパレル店員はオリジナル商品や店舗の企画に関わるために選んだ仕事だった。

 「同じことの繰り返しになってますが、結局、洋服屋でもあまり絵を書かせてもらえなかったんですよ。そのまま販売を2、3年ほどやっていました」
 その頃を回顧する門氏の口調は穏やかで、どこか面白がっているようにも見えたが、きっともどかしい思いもあっただろう。