ドイツを代表する国際都市フランクフルト。欧州中央銀行が置かれた金融の中心地から電車と車を乗り継いで2時間弱。草原が広がる田舎町の外れに、独サッカーリーグ1部・ブンデスリーガに所属するあるチームの練習場がある。
チームの名は「TSG1899ホッヘンハイム」。Jリーグの「ガンバ大阪」に所属する日本代表の宇佐美貴史選手が一時期所属していたことで記憶に残っている方もいるかもしれない。
名称が示すように、チームの創設は1899年。人口わずか3000人の小さな村にあるチームで、長い間7部~9部リーグをさまよっていた。が、1990年を境に状況は一変する。ソフトウェア大手の独SAP創設者のディートマー・ホップ氏が出資者に名を連ねると、めきめきとチーム力が向上。毎年のように上位リーグへの昇格を遂げ、2008年には1部リーグの仲間入りを果たした。
特注の練習設備で汗をかくホッヘンハイムの若手選手(写真上)。練習内容のスコアがタブレットに表示される(写真下)
ホッヘンハイムがユニークな点はおカネのかけ方にある。ホップ氏が持つ豊富な資金を、他のビッグクラブのように優れた選手の獲得に注ぐのではなく、傘下のユースチームに所属する若手選手の育成に投じているのだ。その証拠にトップチームは昨シーズン15位に甘んじたが、ユースチームは毎年のように優勝争いを演じている。
選手だけではない。ユースチームを率いていた28歳のユリアン・ナーゲルスマン監督が昨シーズン途中からトップチームの監督に就任するなど、自前のスタッフを育てることにも余念がない。
選手の育成といっても、具体的にどのようにおカネをかけているのか。その答えがチーム練習場の中に隠されていた。
記者も最新設備での練習を体験
「さっきより10%成功率が上がったぞ」「瞬時の判断力が上がってきたな」
正方形の檻に囲まれたピッチから出てきたホッヘンハイムの若手選手が上気した顔でスタッフと会話を交わす。
ホッヘンハイムが特注した練習設備の形状は変わっている。正方形の各辺に上下16の枠がある。8か所の穴から順不同に飛び出してくるボールを、緑に光る枠へと蹴り込む。枠に入らなかったボールの数、ボールが出てから枠に入るまでの時間などのデータからスコアが表示される仕組みだ。
「これを使えば、ゲーム感覚で判断力やパス精度を向上させることができる。すべてのデータを蓄積しているので、それぞれの選手が苦手なパスコースを集中してトレーニングすることも可能です」。ホッヘンハイムのスタッフは練習の狙いをこう説明する。
特別に記者も練習を体験させてもらえることになった。屈伸運動をしていざ本番。恥ずかしながら、それが以下の映像だ。
パスミスかフェイントか分からないようなスキルを織り交ぜた結果、スコアは91点。さっきのホッヘンハイムの若手選手よりも高いぞ!
スコアは91点!結構いい線いっているのではないか…
Jリーグブームに便乗し、1年間だけサッカー部に所属していた成果が出た。調子に乗って「選手として私を雇う気はないか」とスタッフに尋ねてみたところ、「門戸は開かれているので、やる気があるならどうぞ」と冷ややかな答えが返ってきた。
実は私が挑戦したのは最も簡単な初級コース。言われてみれば確かに上段や背後など難しい枠が緑に光ることはなく、ボールの速度もかなり遅かった…。
ケガの予測でパフォーマンス最大化
「この設備の狙いは練習だけではない」。そう話すとスタッフは設備の裏手スペースに案内してくれた。
そこにはずらっとモニターが並び、4、5人のスタッフが打ち出されたデータを分析していた。この設備を利用する選手は体中にセンサーを取り付ける。頭や体の細かな動作を自動的に把握できるため、無駄な動きを指摘し、改善につなげることができる。でもそれだけではない。
「例えば内筋に過度に負担がかかる蹴り方をしていれば、大きなケガの元になる。それを未然に防ぐことで、結果として選手のパフォーマンスを最大限に引き出せる。そうした体調管理の面も大きい」
選手の細かな動きを把握・分析することでケガを未然に防ぐことができる
別の部屋には、270度のパノラマスクリーンが置かれていた。ピッチ上をサッカーゲームに登場するようなグラフィックの選手が縦横無尽に動き回る。ある瞬間で画面の動きが止まり、どの選手にパスを出すべきかをボタンで選択する。まるでゲームのようだが、れっきとした練習設備のひとつだ。
「これも瞬時の判断力を養うためのプログラムです。サッカー選手が捉えないといけない視野の範囲を広げる練習になります」
練習から選手別にデータを蓄積
練習場の中を歩くと、思わずこうした奇抜な練習設備にばかり目が向くが、SAPの真の凄みはそこにはない。あらゆるデータを収集し、チーム構成や戦略の策定、選手の体調管理などに役立てているネットワークにこそ本質があるからだ。
それを可能にしているのは、瞬時にデータをリアルタイムで高速処理するSAPの独自技術「HANA」だ。HANAはサーバーのメモリー上でデータを処理できるため、従来のハードディスク型よりも1万倍以上早いと言われている。
ホッヘンハイムは練習設備だけでなく、ボールやユニフォーム、ピッチなどにもセンサーを設置。普段の練習から膨大なデータを収集している。それらを選手ごとに分類し、きめ細やかな指導につなげている。
「チーム強化だけでなく、ファン層の拡大や組織運営にもデータを役立てることができる。スポーツ事業の可能性は無限大だ」。SAPで全世界のスポーツ事業を統括するグローバル・ゼネラル・マネジャーのステファン・ヴァグナー氏はこう指摘する。
「25番目の有望な業種」として2013年にスポーツ分野への本格参入を果たしたSAP。ヴァグナー氏はその統括役だ
スポーツの世界でのデータ活用はここ数年で爆発的に広がった。車のあらゆる部分にセンサーが取り付けられたF1では「スタート時点でゴールの順位がほぼ正確に予測できる」(ヴァグナー氏)ところまでデータ革命が浸透している。
だが、すべてを予測可能な範囲内に収めることはかえってスポーツの楽しみを減ずることになるだろう。重要なのはこうしたデータをどう活用し、いかにスポーツの魅力を高められるかという点にある。筋肉痛で張った足を引きずりながら、その点が課題として残っているように感じた。
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