そこで事件は起きた。読経が始まって10分ほどが過ぎた時、突然、若い女性従業員が震えだし、苦しみながら暴れ出したのだ。とまどう幸長氏と従業員を尻目に、お坊さんの一人が冷静に従業員に話しかけた。「なぜ来たのか」。すると女性従業員は朦朧とした意識の中で「祠を建てて欲しくてきた」と答えた。さらに話を聞くと、どうやら「ナーン・タキアン」と呼ばれる木の精霊が従業員に取り付いているらしいことが分かった。文化人類学者の関泰子氏の論文によれば、ナーン・タキアンは「獰猛な精霊であり、怒ると人間を食い殺すこともある」存在で知られる。

 女性従業員に憑依した精霊の語りによれば、レンタル工場が建つ以前、ここには精霊が宿るタキアンの木が根を張っていた。だが建設時に切り倒され、無造作に地面に埋められてしまったのだという。

 問題なのは霊樹を切り倒したにも関わらず、長い間そこに祠が建てられていないことだった。「タイを知るための78章」(明石書店)によれば、タイでは建物を建てる際、以前からその地に住む精霊が災いをもたらさぬよう、近くに祠を作るのが一般的だ。だがレンタル工場に祠はなかった。その恨みが積もり、幸長氏と従業員の前にナーン・タキアンは現れたのだ。

タイでは祠をあちこちで目にすることができる。その土地に住む精霊や吉祥神、ヒンドゥー系の神々などが祀られている

取り憑かれた工場

 精霊が現れる以前から、従業員の間では、夜になると伝統的な格好をした髪の長い女性が工場内を徘徊しているという噂が立っていた。その姿がナーン・タキアンそっくりだったことが判明し、従業員の間では動揺と恐怖が広がる。幸長氏は騒動があった日の操業は早々に諦め、従業員を帰宅させて事態の鎮静をはかろうとする。

 「その時は、ピー(タイの幽霊、お化け)の話が大好きな従業員が起こした、ちょっとしたアクシデント程度に思っていた」と幸長氏は振り返る。だがその考えは甘かった。

 翌日朝、幸長氏が出社すると数人の従業員の姿が見えなかった。「精霊に取り憑かれた会社」と彼らは恐れ、早々に辞めてしまったのだ。実際、その後も精霊は幾度となく前述の女性従業員の身を借りて現れ、叫び声を上げるなどして周囲に恐怖と困惑を撒き散らす。突然、工場内の電源が落ち停電するといった怪異まで頻発した。

 従業員は恐怖のため残業できなくなり、次第にポツリポツリと会社を去っていった。周囲の工場からも、「あそこは精霊に取り憑かれている」という噂が立ち、新しく従業員を雇うことも難しい。生産ラインを通常通り動かすことも容易ではなくなってきた。生産性は低下し、納期は遅れがちになる。幸長氏は日本の本社にサポートを依頼するまで追い詰められた。