日経ビジネスは3月5日号に、特集記事「3・11 7年が生んだ未来」を掲載した。あの日から7年が経ち、3・11という言葉の持つ重みは残念ながら確実に薄れてきている。風化という単純な問題ではない。毎年この日を迎える時には、故人に想いを馳せる人は多いだろう。しかし、莫大な公金の投入や、国や東京電力ホールディングスの杜撰な振る舞いは、東北に多くの複雑な問題を生んだ。その問題を正しく理解することは放棄されているように記者には思えるのだ。こうした現場と読者の乖離を埋めるのが、日経というメディアが果たすべき役割だと考える。

 記者は2011年、東日本大震災、福島第1原子力発電所事故の発災直後、日本経済新聞の記者として宮城県沿岸部での取材に携わった。高々1週間の滞在に過ぎなかったが、当時経験したことは、自身が記者として働く意義を考える時、これからも常に思い出すことになると思う。

南三陸町の様子

 現場入りした初日、ただただ空虚が広がる街の跡を、家の残骸がスラム街のゴミの山のように積み上がる様子を見た。崩れた家の基礎の上に落ちていた小さなアルバムには、高齢の女性が孫や友人と食事をしている写真が入っていた。写真は水を吸い、しわくちゃになっていた。そこにあったはずの命が、営みが、あっという間に消えていた。

 地元住民が協力しながら避難生活を営んでいた寺を見つけ、話を聞いた。寺が備蓄の食料を提供し、元コックが調理。土木工は流木を薪として保存するためのラックを組み上げた。溶けたロウソクを固め直している人もいた。自動車工はクルマからバッテリーを取り出し、携帯充電器を組み上げた。避難者の一人は4日ぶりに画面が灯った携帯電話に、姉からの無事を知らせるメールを受け取った。住職の妻は、ただ取材にきただけの記者に牛乳を振舞ってくれた。当時は内陸部でも買えない貴重品だ。記者が固辞しても「これ飲んで頑張って」と肩を叩かれた。

 次の日、記者人生で初めて、遺体を見た。がれきの中から救急隊に運び出されたその遺体は、水を吸って膨れ上がり、性別すら判然としなかった。両腕は水面を求めるかのように突き出されたまま硬直していた。3日目には、避難中の理髪師に出会った。お風呂に入れなかった被災者のため、ボランティアで散髪をしていた。老人ホームに避難を呼びかけに行った理髪師の妹は、その付近で遺体となって見つかっていた。理髪師は「こうしている方が気が楽だね」と、避難所のパイプ椅子に座る客と談笑していた。

 4日目には、避難所を巡回する精神科医と出会った。避難所には、夜中に周囲を徘徊し、津波に怯え眠れない人が大勢いた。5日目には、雪がちらつき、満足に暖房も使えない中、ぐったりとした赤ん坊を抱えて仮設診療所を訪れた母親、被災のショックからか母乳が出なくなった母親に出会った。

 取材をしながら、毎日泣いていた。今でも思い出すたびに涙が出る。ニュースで見ていただけでは理解できないものが現場にあった。自分が記事にしても、読者には十分に伝わらないかもしれない。それでも、見たもの、感じたものを読者に少しでも届けたくて記事を書いた。

 東北への取材に再度関わりたいと希望を出し続け、15年の春から約1年間、日経新聞の震災・福島原発事故の専任担当となり、福島市を拠点にして岩手、宮城、福島3県の沿岸部を取材した。災害公営住宅が徐々に出来上がり、仮設商店街から本設に移行する店も出はじめた。しかし、住民の精神的な面では、発災当時よりももっと状況が悪化していることもあった。