経済ではなくアイデンティティーの危機

 保守層がAfDになびくのは、経済問題のためではない。バイエルン州はドイツで最も裕福な州の一つだ。2018年9月の失業率は2.8%と全国で最も低い。多くの企業が人手不足に苦しんでいる。大卒でスキルを持つ人材は、ほぼ完全雇用状態である。ケルンのドイツ経済研究所(IW)によると、2015年のバイエルン州の勤労者の平均月収は全国16州の中で2番目に高かった。ドイツ株価指数市場(DAX)に上場している大企業30社のうち、7社がバイエルン州に本社を置く。バイエルン州の国内総生産は、約6000億ユーロ(約78兆円)に達する。

 好景気にもかかわらずドイツ人の有権者は、この国の政治について漠然とした不安を抱いている。ドイツのアレンスバッハ人口動態研究所が発表した世論調査によると、「難民をめぐる状況に不安を抱いている」と答えた回答者の比率は47%。1年前に比べて15ポイントも増加した。

 また「政治は何一つ前進していない」と答えた回答者の比率は64%、「不法な移民の流入に対して、国境を効果的に守る手立てはない」と答えた市民は54%にのぼっている。回答者の80%が、「国境での入国検査をもっと効果的に行うべきだ」と訴える。つまり多くの市民は、政府が厳密なコントロールを行わないまま難民がドイツに入国することによって、この国の秩序やドイツのアイデンティティーが侵されることに危惧を抱いているのだ。

 1978年から10年間にわたりバイエルン州の首相を務めたフランツ・ヨーゼフ・シュトラウス氏は、「ドイツではCSUよりも右に位置する政党を作らせてはならない」と述べたことがある。AfDの躍進はシュトラウス氏の危惧が現実化したことを物語っている。

CDUと同じ穴の狢と見られたCSU

 バイエルン州の地元政党CSUの悲劇は、CDUの姉妹政党としてしか中央政界で活躍できないことだ。CDU・CSUは連邦議会で共同会派を作っている。CDUはバイエルン州の連邦議会選挙区に候補者を立てない代わりに、CSUはバイエルン州以外の地域では連邦議会選挙の候補者を立てない。したがってCSUはCDUと共同歩調を組むことによってしか、中央政界で権力の座につくことができない。

 このためメルケル首相が進める政策に批判的な保守層は、「CSUもCDUと同じ穴の狢(むじな)」と考えてきた。いわばCSUはメルケル首相が進める難民政策のとばっちりを受けたのだ。AfDは2017年9月の総選挙前に「ゼーホーファーに票を投じる者は、メルケルをも選ぶ」と書いたポスターをバイエルン州で掲げていた。そこには、ゼーホーファー氏とメルケル氏が恋人のように熱烈に抱擁し合うイラストが描かれていた。

CSUのメルケル批判

 もちろんCSUは、「メルケル体制」から距離を置こうと努めてきた。たとえばCSUは大連立政権の中でメルケル首相が取り組む難民政策に最も批判的な立場を貫いてきた。ゼーホーファー氏は2015年9月にメルケル首相が難民受け入れを発表すると、「これは大きな過ちだ」として公に批判。同首相に対し1年間の難民受け入れ数を20万人に制限するように要求した。(メルケル首相は上限という言葉を使わなかったが、20万人前後を目安とするという表現で、ゼーホーファー氏の要求を受け入れた)。

 今日ではメルケル首相とゼーホーファー氏の関係は、「仇敵」の間柄と言っても過言ではない。

 メルケル首相とゼーホーファー氏の関係が決定的に悪化したのは、2015年11月20日のCSU党大会だった。当時ドイツでは、同年9月にドイツに押し寄せた多数のシリア難民の受け入れについて激しい議論が戦わされていた。

 この党大会でゼーホーファー氏はビデオカメラが回っている中、メルケル首相を15分間にわたり壇上で自分の隣に立たせたまま、彼女の難民政策を批判した。その模様は、教師が素行の悪い生徒を自分の前に立たせて説教をしているシーンを連想させた。州政府の首相が、連邦政府首相を叱りつける様子は、テレビによって全国に流された。

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