日本でも多くの企業が研究を進めている、物のインターネット(IoT)。その推進の仕方に、ドイツと日米の間で大きな違いがあることは、あまり知られていない。日米では民間主導で始まったのに対し、ドイツでは最初から政府主導で推進してきた。なぜこのような違いが生じたのだろうか。ドイツにおけるIoTが、最初から政府によるトップダウンで行われている理由を、数回に分けてお伝えする。
今年6月13日、ドイツ連邦政府のアンゲラ・メルケル首相は、同国南西部のルートヴィヒスハーフェンで開かれたデジタル・サミットに出席した。デジタル・サミットは、政府と経済団体が2014年から毎年開催している会議で、インダストリー4.0など経済のデジタル化に関する様々なテーマを、政界、官界、経済界、学界の代表が一堂に会して討議する場だ。
「インダストリー4.0はサクセス・ストーリー」
インダストリー4.0は、ドイツ工学アカデミーと連邦教育科学省が、2011年に発表した。それまでモノのインターネット(IoT)は、世界各国で個別の企業や科学者によって研究されていた。政府が最初からIoTの普及について強力なイニシアチブを握り、トップダウンで国家プロジェクトにしたのは、ドイツが世界で初めてである。
メルケル氏はデジタル・サミットで行った演説の中で、「インダストリー4.0はサクセス・ストーリーだ。このプロジェクトにより、我々は欧州だけでなく世界中で国際標準を設定する可能性を手にした。大企業だけでなく、中小企業もインダストリー4.0に取り組んでいることは、極めて重要である」と述べ、関係者が過去6年間に行ってきた努力を称えた。
メルケル氏は、IoT普及に関してこれからドイツが対処しなくてはならない喫緊の課題として、人材育成とビッグデータへの取り組みを挙げた。
いまドイツではデジタル化を支えるIT(情報技術)技術者の不足が深刻化している。このためメルケル氏は、「我々はまだ多くの課題を解決しなくてはならない。今後は職業訓練や研修が重要になる」と述べ、人材育成がインダストリー4.0を成功させるカギの1つになるという見方を打ち出した。
メルケル氏は「我々は、どの職業を選ぼうか迷っている若者たちに、IT業界が秘める大きな可能性について理解させる必要がある。この業界では、人材への需要が今後も増えるだろう。また中小企業は、インダストリー4.0を導入する上で、IT専門家を確保することが極めて重要になる。IoTに関する全ての業務をアウトソースすることは不可能であり、自社のIT対応力を高めなくてはならない」と語った。
この背景には、高い技能を持つIT専門家の不足が、ドイツの中小企業が生産工程のデジタル化を進める上で、大きな障壁になっている現実がある。
メルケル氏は「現在ドイツの大学や高等専門学校で機械工学やITを専攻する学生のうち、女性はまだ25%にすぎない。これからはエンジニアやITプログラマーとして働く女性の比率をもっと増やすべきだ」と述べた。
ビッグデータによる新ビジネスの開拓がカギ
さらにメルケル氏は、「ドイツ企業は、ビッグデータを活用した新ビジネスについて尻込みしてはならない。我々は従来の製造・販売工程をデジタル化するだけではなく、ビッグデータを使って新しいサービスや製品を提供しなくてはならない」と述べた。
この発言には、インダストリー4.0は単に生産効率の改善をめざすものではなく、インターネットでつながれた製品がメーカーに送る大量のデータを使って、新しいサービスや製品を提供する「スマート・サービス」こそが、IoT計画の最も重要な点だというメッセージが込められている。
ドイツ工学アカデミーも、インダストリー4.0が生産性の改善だけで終わり、ビッグデータによる新ビジネスモデルの開拓につながらなければ、成功とはいえないという見方を取っている。自動化による生産性の改善ならば、日本の製造業界がとっくに実現しているからだ。インダストリー4.0の神髄は、ビッグデータ解析による新たな付加価値の創出にある。
メルケル氏の言葉は、意味深長だ。「ビッグデータの活用は、メーカーと顧客の関係を根本的に変える。我々は、ビッグデータを活用することで、全く新しい価値を創出するプロセスが生まれることを、常に念頭に置くべきだ。特に中小企業は、この新しい価値創出のプロセスを迅速かつ集中的に利用しなくてはならない」
メルケル氏が演説の中で、「根本的に変わるかもしれない」などの婉曲的表現ではなく、「根本的に変える」とか「利用しなくてはならない」という断定調の言葉を使っていることに、政府が抱く切迫感が感じられる。
メルケル氏が指摘する「新しい価値創出のプロセス」とは、何か。その一例が、デジタル・プラットフォームを使った製品製造ノウハウの販売である。連邦政府の諮問機関ドイツ工学アカデミーのヘンニヒ・カガーマン会長は、「ドイツのメーカーは将来、単に製品を輸出したり、外国の工場で組み立てたりするだけではなく、製品や部品に関する製造ノウハウを、デジタル・プラットフォーム上で販売するようになる」と述べる。
たとえば、マレーシアのメーカーが、ドイツの部品会社が製造するある特殊な部品を緊急に購入する必要に迫られたとしよう。マレーシアのメーカーはデジタル・プラットフォームにアクセスし、料金を払って部品の製造ノウハウに関するソフトウエアをダウンロードする。そしてソフトウエアを、部品の素材があるマレーシアの工場へ持ち込んで、3Dプリンターで“プリントアウト”する。こうすれば、従来1週間かかっていた部品の調達が、数時間で可能になる。こうした販売方法を取れば、ドイツの人件費が東欧や東南アジアに比べて高くても、大きな問題にはならない。製品の輸出や、外国での現地生産も不要になる。
さらにドイツの部品会社は、世界中で販売した製品や部品の使用状況についてのデータを、デジタル・プラットフォームを通じてリアルタイムで入手できるかもしれない。それも、本社にいながらだ。顧客が保有する、自社部品に関する需要や購入時期に関するデータを分析することによって、部品会社は新しいサービスや製品を能動的に提供することが可能になる。
さらに、デジタル・プラットフォームを使えば、国際的な販売チャンネルを持たない中小企業でも、未知の顧客や市場を開拓し、販路を拡大することができる。
デジタル・プラットフォームの光と影
だがこのデジタル・プラットフォームは、ドイツの中小企業に利点だけをもたらすわけではない。部品や製品を求める顧客は、メーカーではなく、まずデジタル・プラットフォームを運営する企業と接触することが増える。このため、メーカーと顧客が直接接する機会がこれまでよりも減ることになる。つまり、メーカーと顧客の間に、デジタル・プラットフォームの運営企業が割り込んでくるのだ。これはメーカーの地位を低めることにつながりかねない。
シュトゥットガルト大学で労働科学とテクノロジー管理について教えているハンス・イェルグ・ブリンガー教授は、「デジタル・プラットフォームの運営企業が、スマート・サービスを提供するメーカーと顧客の間の仲介役を果たすだろう。プラットフォーム運営企業が、市場へのアクセス権をがっちり握ることになる。顧客はプラットフォーム運営企業と接触するので、スマート・サービスを提供するメーカーを現在ほど意識しなくなる」と予想する。
つまり中小企業がデジタル・プラットフォーム戦略を自ら打ち建てないと、プラットフォームに製品やサービスを提供する下請け企業に成り下がるというわけだ。
さらにドイツの中小企業の間には、「機微な製造ノウハウをデジタル・プラットフォームに公開すると、ハッカーに盗まれたり、不正な操作を受けたりする危険が増えるのではないか」という懸念も強い。今年に入ってから、ワナクライやペティアなどのマルウエアが、世界各地で企業のITシステムに深刻な影響を与えている。製造・販売工程のデジタル化が進むほど、サイバー攻撃に対する企業の脆弱性も高まる。
ドイツの中小企業はイノベーション力が高く、企業間取引に特化している。メディアや消費者には名前が知られていなくても、特定のニッチ分野ではグローバル市場で大きなシェアを占める企業が多い。彼らは、顧客企業が「その製品がないと、我が社の生産活動に支障が出る」と考えざるを得ない状況を生み出すことによって、価格競争に巻き込まれることを防いでいる。ドイツでは税金や社会保険料が高いので、付加価値つまり価格が高い製品に特化しないと、長期間にわたって生き残ることは難しい。
つまり彼らは機微な製造ノウハウに依存する度合いが高いので、そのような重要なノウハウをデジタル・プラットフォーム上で売ることについて、尻込みしてしまうのだ。
また、デジタル・プラットフォームを運営する企業の半数以上が米国企業であり、欧州企業の数がまだ少ないことも、ドイツの中小企業にとっては懸念材料である。個人データ保護に関する米国の規定は、欧州に比べるとはるかに緩い。米国の国家安全保障局(NSA)の元職員だったエドワード・スノーデン氏は、「米国の一部のIT企業が諜報機関にデータを提供していた」と主張している。
政府が中小企業を強力に支援
だがデジタル・サミットの会場でメルケル氏は、中小企業に対して「外国の競争相手は、眠っていない。我々はビッグデータやデジタル・プラットフォームを活用することに逡巡してはならない」というメッセージを送った。同氏は、「中小企業がこのチャンスを能動的に生かさないと、我々の価値創出プロセスが、デジタル・プラットフォームの運営企業によって浸食される危険がある」と警告した。
ドイツの中小企業は、ミッテルシュタントと呼ばれる。ドイツ企業の約99%はこうした中小企業で、ドイツ製造業界の屋台骨でもある。彼らの多くは家族企業だ。ドイツ政府はミッテルシュタントを極めて重視し、研究開発費を助成するなどして積極的に支援している。多くの市民がミッテルシュタントで働いているため、政治家にとって無視できない票田でもある。メルケル氏が演説の中で、中小企業について繰り返し言及したのは、そのためだ。
ドイツ政府が2011年以来、インダストリー4.0を政府主導のプロジェクトとして進めている理由の1つは、大企業に比べて資本力や情報収集力に劣るミッテルシュタントが、デジタル化の流れの中で取り残されないようにするためである。
ミッテルシュタントがインダストリー4.0を受け入れて、実行に移すかどうかは、この国家プロジェクトの成否を左右するカギだ。ドイツ工学アカデミーの会員でもあるミュンヘン工科大学のクラウス・マインツァー教授は、「インダストリー4.0は国が主体となりトップ・ダウン方式で始めたが、この上からの改革をミッテルシュタントにどう実行させるかが、大きな問題である。もしもミッテルシュタントが参加しなかったら、インダストリー4.0は成功しない」と断言する。(続く)
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