今年のドイツは異常な暖冬に見舞われた。2月だというのに、時折4月並みに暖かい日がある。すでに野の花が咲き始め、小鳥が囀り始めている。春がすぐそこまで迫っている感じだ。

眉間に皺を寄せる独首相のメルケル(写真:代表撮影/ロイター/アフロ)
眉間に皺を寄せる独首相のメルケル(写真:代表撮影/ロイター/アフロ)

 だが首相のメルケルを初めとする大連立政権の幹部たちは、春に似つかわしくない重苦しい空気の中にいるはずだ。メルケルは最近、公の場でも眉の間に深い皺を寄せて、厳しい表情を見せることが増えてきた。

「難民を歓迎する文化」の終焉

 政権内部の空気が重苦しさを増しているのは、来月、つまり3月がメルケルにとって、大きな正念場となるからだ。3月13日には、ドイツ南西部のバーデン・ヴュルテンベルク州、ラインラント・プファルツ州、そして旧東ドイツのザクセン・アンハルト州で州議会選挙が行われる。ドイツ人たちは現在、この選挙の行方を固唾をのんで見守っている。

 これらの州議会選挙が注目されている理由は、ドイツの有権者たちがメルケルの難民政策に審判を下す最初の機会となるからだ。これらの選挙は、メルケルにとって「運命の分かれ目」となるかもしれない。

 メルケルの難民政策は現在、国論を真っ二つに割っており、連日、侃々諤々の議論が行われている。

 昨年9月5日にメルケルは、ブダペストで立ち往生していたシリア難民らに対して国境を開放し、ドイツで亡命を申請することを許した。EUの「ダブリン協定」によると、難民は通常、最初に到着したEU加盟国で亡命を申請しなくてはならない。メルケルが、すでにハンガリーにいた難民たちに、ドイツでの亡命申請を許可したのは、ダブリン協定に違反する「超法規的措置」だった。大半の難民は、ハンガリーやオーストリアではなく、社会保障が手厚く、難民の受け入れに寛容なドイツに亡命申請することを望んだ。

 この決定により、9月には一時、ドイツに到着する難民の数が1日あたり約1万人に達した。ミュンヘンやベルリンの駅では当時、ドイツ市民が難民たちを拍手で出迎えたり、子どもたちに玩具を贈ったりした。大都市では数千人のボランティアたちが、難民の収容施設で衣服を与えたり、ドイツ語を教えたりした。

 当時、英仏や東欧の国々が難民に対して冷淡な態度を見せる中で、ドイツ人たちが示したこの姿勢は、「難民を歓迎する文化(Willkommenskultur)」と呼ばれた。米国やイスラエル、国連関係者らは、「メルケルはヨーロッパの良心だ」と絶賛した。米国のタイム誌は昨年、メルケルを「パーソン・オブ・ザ・イヤー」に選んだ。普段はドイツに対して舌鋒が鋭い英国のエコノミスト誌も、「今日のヨーロッパは、メルケルを必要とする」と彼女の功績を称えた。

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