あと数カ月してヨーロッパに春が訪れ、地中海の波が穏やかになれば、再び多くの難民がドイツをめざす。今後3年間でEUにやってくる難民の数は、約300万人に達すると見られている。いまドイツで我々が見ている状況は、まだ序章なのだ。

 筆者は、全ての難民を犯罪者と同一視することには反対だ。全てのイスラム教徒が女性を差別するわけでもないだろう。全てのイスラム教徒が、女性に対する暴力行為を是認しているわけではない。だが、一人ひとりの難民を詳しく審査することなしに、毎年100万人の外国人をこの国に受け入れることは、ドイツに大きなストレスをもたらす。ドイツがこの負荷に耐えられるかどうかは、未知数だ。メルケルが掲げる「Wir schaffen das(私たちはやり遂げられる)」というスローガンだけでは、もはや国民は納得しない。

 メルケル政権は、「難民危機はドイツだけの問題ではなく、EU全体の問題だ」として、他の加盟国にも難民を受け入れるよう求めている。だが英仏や東欧諸国は、難民受け入れに極めて消極的だ。さらにこれまでは受け入れに寛容だったスウェーデンとデンマークも、「収容能力の限界に達した」として、今年に入って国境での入国検査を再開した。難民政策をめぐり、ドイツはEUで孤立している。

 今年3月には、バーデン・ヴュルテンベルク州など3カ所で州議会選挙が行われる。ケルンの事件は、メルケル、そして大連立政権の支持率を引き下げ、右派政党AfDの支持率を押し上げるだろう。有権者はこれらの選挙で、メルケルに対し「あなたは、毎年100万人の難民を受け入れるという決定が、ドイツに与える影響について十分に考えずに、人道的な動機から衝動的に決めた。これは政策ミスだ」という警告を突きつけるに違いない。

「難民を歓迎する文化」の終わり

 ドイツでは、「メルケルが衝動的に難民受け入れを決めた理由」として、しばしば引き合いに出される有名なエピソードがある。メルケルは、昨年7月16日、つまりハンガリーでの難民をめぐる状況がエスカレートする2カ月前に、旧東ドイツ・ロストック市の学校を訪れ、先生や子どもたちと対話した。メルケルは時折、このような「市民との対話」をドイツ各地で行っている。

 この時、4年前にパレスチナからレバノン経由でドイツに来た難民の娘、レーム・サーウィル(14歳)が、メルケルに対しドイツ語で「私は、ここに滞在できるかどうか分かりません。将来がどうなるか、分からないのです」と言って泣き出した。女の子のドイツ語は流暢で、この子が必死でドイツ社会に適応しようとしていることは、明白だった。この時メルケルは、「泣かないでください」と言って女の子の頭を撫でて、慰めようとした。しかしメルケルは、「残念ですが、全ての外国人が、ドイツに滞在できるとは限りません。国に帰らなくてはならない人もいるのです」と厳しい言葉を言わなくてはならなかった。メルケルの顔には、苦しそうな表情がはっきり表れていた。衆人環視の中で、涙ながらに「助けてください」と直訴されたメルケルは、心を鬼にして女の子を突き放さなくてはならなかったからだ。

 ドイツのジャーナリストの中には、「この時の体験が、2カ月後、メルケルを難民受け入れに向けて突き動かした」という意見を言う者もいる。当時フランス政府の閣僚からは、「憐みの心だけで政治を行うことは、危険だ」という声が聞かれた。ケルンの事件後、メルケルは自分の決断が招いた結果の重さを噛みしめているはずだ。

 メルケル政権の閣僚からも、「ドイツは、1年間に100万人の難民を受け入れる力はある。しかし、この状態が何年も続くとなると、話は別だ」という意見が出ている。

 筆者は昨年9月5日に、ミュンヘンの駅に続々と到着するシリア難民たちを、ミュンヘン市民が拍手で出迎え、食料や玩具を手渡すのを見て、感動した。ドイツ人のこうした態度は、「難民を歓迎する文化(Willkommenkultur)」と呼ばれて、米国などで絶賛された。だがケルンの事件は、ドイツの「難民を歓迎する文化」を事実上終わらせた。この国では、難民、そして外国人に対する目が日に日に厳しくなりつつある。メルケルは、市民そして政界からの批判に対して、どのように答えるだろうか。
(文中敬称略)(続く)